以前、新聞の投書欄で、自分の子供がプラスチック製のすずりを使っていることに驚き、「本当の習字」を教えられないのなら、習字は必要ないのではないかと説く文章があった。
5月末の金曜日のこと。小学校3年生の娘が学校から帰ってきた。初めての習字の授業があったという。 どうだったと聞くと「楽しかったよ。宿題は筆とすずりを家で洗ってくることだよ」という。私は真新しい習字道具を手に取ってみた。 なんとプラスチック製すずり。石などで出来ていると思っていた私の固定観念が崩れた。セットには墨は入っているが、使った形跡はない。
娘に聞いてみると、セットに入っている墨汁を、そのまますずりに入れるので墨は使わないらしい。娘も「いったいこれ、何に使うんだろうね」 という。あまりの驚きに言葉が出ない。小学生の特に低学年は先生から教えてもらうことがすべてだ。学校で習ったのだから、 子どもたちはこれが習字だと思ってしまうのが問題なのだ。勤め先の他区の人にも聞いたが、同じようなものだという。
ここまでして無理に習字の授業をする必要があるのだろうか。教えること、教わることは何であるのか。教育関係者に、ぜひ考えてもらいたい。
(墨を知らずに習字の授業? 長田眞美 朝日新聞「声」2005.06.11)
お手本をきれいに写すことを一番の目的とする習字(或は書写)と、 自分の味を出しつつ人を惹きつけるような字を書くといったようなことを目的とするような書道との違いと考えることもできるが、 筆を使って書く前に、墨を磨ってから始めることで、心を落ち着かせることでうまくお手本を写せるようになるかもしれない。 きれいに写せて初めて、自分の字、そして書道に向かうことができるのではないだろうか。 本当はあまり気にすることではないかもしれない。 実際、自分が、大量に練習していた時は、墨なんかすらずに、プラスチックの容器に市販の 墨汁をいれて書いていた。書く時の「姿勢」を重んずるか、「書くこと」を重んじるかが、 人によって違うというのはおもしろい。
高校の書道の時の先生は、はじめに墨をするのも大事なことだと教えてくださったが、 文字を書くことの背景も重要であるということだったのだろうか。
そういえば、習字関連で、筆に関して、小学校の書写の時間に、先生が「筆は洗わないで固めるんだ」、 とひどいことをおっしゃっていたのを思い出した。小筆はともかく、大筆は一回固めると ほぐすのにかなり手間がかかるようになってしまうので、固めた人はみんなたたいたりして無理矢理使えるようにするのだが、 だいたい1年くらいで使いものにならなくなっていた。それでも使ってくしゃくしゃの筆跡でなんとかしているいる人が 多かったので、先生の力というものは大きな影響があるのを実感する。これは、単に、学校の手洗い場を汚されたくないという 意図だった可能性もあるが、この先生が転任なさった後は、洗ったほうがよいということになったから、 なんとも困ったものである。他の人に聞いてみたことがあるが、上の人の言う通りにするのが大事で、すること自体の良し悪しは 考えたこともないとの返答で、そんなもんだろうかと考えてしまった記憶がある。
プラスチックの硯の話の続きで、平家物語に、「するすみ」という話があるが、墨をするということを知らないと、 漆黒の馬とわからないかもしれない。そうだと、結局としては、教育としてはやはりよくないと思われる。
平家物語からいきずきのさたのところをちょっと引用してこの項は終わりとしたい。 (もとデータ)
... そのころ鎌倉どのには、いけずき、するすみとて、きこゆるめいばありけり。いけずきをば梶原源太かげすゑしきりにしよまうまうしけれども、 「これはしぜんのことのあらんとき、頼朝がもののぐしてのるべきむまなりこれもおとらぬめいばぞ」とて、梶原にはするすみをこそたうでげれ。 そののちあふみのくにのぢうにん、ささきしらうのおんいとままうしにまゐられたるに、鎌倉どのいかがおぼしめされけん。 「しよまうのものはいくらもありけれども、そのむねぞんぢせよ」とて、いけずきをばささきにたぶ。ささきかしこまつてまうしけるは、 「こんどこのおむまにて、宇治がはのまつさきわたしさふらふべし。もししにたりときこしめされさふらはば、ひとにさきをせられてげりと、 おぼしめされさふらふべし。いまだいきたりときこしめされさふらはば、さだめてせんぢんをば、たかつなぞしつらんものをと、おぼしめされさふらへ」 とて、おんまへをまかりたつ。さんくわいしたるだいみやうせうみやう、「あつぱれくわうりやうのまうしやうかな」とぞ、ひとびとささやきあはれける。 おのおの鎌倉をたつて、あしがらをへてゆくもあり、はこねにかかるせいもあり、おもひおもひにのぼるほどに、するがのくにうきしまがはらにて、 梶原源太景季、たかきところにうちあがり、しばらくひかへて、おほくのむまどもをみけるに、おもひおもひのくらおかせ、いろいろのしりがいかけ、 あるひはのりくちにひかせ、あるひはもろくちにひかせ、いくせんまんといふかずをしらず、ひきとほしひきとほししけるなかにも、 かげすゑがたまはつたるするすみにまさるむまこそなかりけれと、うれしうおもひてみるところに、ここにいけずきとおぼしきむまこそいつきいできたれ。 きんぶくりんのくらおかせ、こぶさのしりがいかけ、しろぐつわはげ、しろあわかませて、とねりあまたついたりけれども、なほひきもためず、 をどらせてこそいできたれ。梶原うちよつて、「これはたがおむまぞ」。「ささきどののおむまざふらふ」とまうす。「ささきはさぶらうどのかしらうどのか」。 「しらうどののおむまざふらふ」とてひきとほす。梶原、「やすからぬことなり。
おなじやうにめしつかはるるかげすゑを、ささきにおぼしめしかへられけることこそ、ゐこんのしだいなれ。こんどみやこへのぼり、木曽どののみうちに、 してんわうときこゆるいまゐ、ひぐち、たて、ねのゐとくんでしぬるか、しからずは、西国へむかつて、いちにんたうぜんときこゆる平家の侍どもといくさして、 しなんとこそおもひしに、このごきしよくでは、それもせんなし。せんずるところ、ここにてささきをまちうけ、ひつくみ、さしちがへよき侍ににんしんで、 鎌倉どのにそんとらせたてまつらん」と、つぶやいてこそまちかけたれ。ささきなにごころもなうあゆませていできたり。梶原おしならべてやくむ、 むかうざまにあてやおとすべきとおもひけるが、まづことばをぞかけける。「いかにささきどのは、いけずきたまはらせたまひてのぼらせたまふな」 といひければ、ささき、あつぱれ、このじんも、ないないしよまうまうしつるとききしものをとおもひ、「ささふらへば、こんどこのおんだいじにまかりのぼりさふらふが、 さだめて宇治せたのはしをやひきたるらん。のつてかはをわたすべきむまはなし。いけずきをまうさばやとはぞんじつれども、ごへんのまうさせたまふだに、 おんゆるされなきとうけたまはつて、ましてたかつななどがまうすとも、よもたまはらじとおもひ、ごにちにいかなるごかんだうもあらばあれとぞんじつつ、 あかつきたたんとてのよ、とねりにこころをあはせて、さしもごひざうのいけずきを、ぬすみすまして、のぼりさうはいかに、梶原どの」といひければ、 梶原このことばにはらがゐて、「ねつたい、さらばかげすゑもぬすむべかりけるものを」とて、どつとわらうてぞのきにける。
... いつきは梶原源太景季、いつきはささきしらうたかつななり。ひとめにはなにともみえざりけれども、ないないさきにこころをかけたるらん、 梶原はささきにいつたんばかりぞすすんだる。ささき、「いかに梶原どの、このかははさいこくいちのたいがぞや。はるびののびてみえさうぞ。 しめたまへ」といひければ、梶原さもあるらんとやおもひけん、たづなをむまのゆがみにすて、さうのあぶみをふみすかし、はるびをといてぞしめたりける。
ささき、そのまに、そこをつとはせぬいて、かはへざつとぞうちいれたる。梶原たばかられぬとやおもひけん、やがてつづいてうちいれたり。 梶原、「いかにささきどの、かうみやうせうとてふかくしたまふな。みづのそこにはおほづなあるらん、こころえたまへ」といひければ、 ささきさもあるらんとやおもひけん、たちをぬいて、むまのあしにかかりけるおほづなどもをふつふつとうちきりうちきり、宇治がははやしといへども、 いけずきといふよいちのむまにはのつたりけり。いちもんじにざつとわたいて、むかふのきしにぞうちあげたる。 梶原がのつたりけるするすみはかはなかよりのためがたにおしながされ、はるかのしもよりうちあげたり。そののちささきあぶみふんばり、 だいおんじやうをあげて「うだのてんわうにくだいのこういん、あふみのくにの住人、ささきさぶらうひでよしがしなん、ささきしらうたかつな、 宇治がはのせんぢんぞや」とぞなのつたる。畠山ごひやくよきうちいれてわたす。むかひのきしよりやまだのじらうがはなつやに、 畠山むまのひたひをのぶかにいさせ、はぬれば、ゆんづゑをついておりたつたり。 ...
The bay-trees in our country are all wither'd And meteors fright the fixed stars of heaven; The pale-faced moon looks bloody on the earth And lean-look'd prophets whisper fearful change. These signs forerun the death or fall of kings. -- Wm. Shakespeare, "Richard II" Rules of Open-Source Programming: 22. Backward compatiblity is your worst enemy. 23. Backward compatiblity is your users' best friend. -- Shlomi Fish -- "Rules of Open Source Programming"