たまには旅行にも行きたいと思いつつなかなかいけない。十年一昔としてふた昔近くなるが、 その頃に書いた紀行文を読んで気を紛らわそうと思う。
古都巡礼。
それは、青春の道標。
温故知新。
新世紀を生き抜くための知恵と活力を養うべく、平成13年5月、新緑の候、僕たちは、我が日本が世界に誇る、
世界文化遺産に指定された神社仏閣の多数たむろす、言霊やら怨霊やらに支配され守られ、連綿と人々が生き続け生き抜いてきた、大和そして山城へと旅だった・・・。
まず、橿原神宮前駅で自転車を借り、最初の目的地である本薬師寺跡に向かう。民家の玄関先に立て札がたっているだけである。
中にはいると、礎石の復元がおいてある。中心の石の心柱を差し込む穴は、足を楽々と入れられるくらい大きい。この、
民家の中の礎石群近くの南西およそ20メートル離れたところには、もう一群あった。
二つ目の礎石群から道に戻る途中、東側の田圃の真ん中を、雉が歩いているのを見た。
次に、朱雀大路跡に向かう。この途中、明日香川という川を渡ったが、想像していた印象とだいぶ違い、どぶ川に近かった。
そして、無事、藤原京朱雀大路跡に着く。しかし、これも名前から受ける立派そうな印象とは違って、東西に走る幅5メートルの道の南側に、
南北に細長い幅10メートルほどの空き地があるだけである。そして、看板と、意図不明な小さなコンクリート造りの道がついている。
また、北側は広大な田圃が広がり、京があったというのが信じられないほど、閑散としていた。
そこから東に進むと、天香久山が見えてくる。持統天皇の御歌にも詠まれただけあって、たいへんすっきりした、小ぶりな山である。
衣までは干されていなかったが、その様子を想像すれば、いとゆかし。この天香久山を覆う万葉の森を左手に見ながら、次は、飛鳥資料館を目指す。
ここでは、明日香村の様々な史跡が時代順に並べられ、分かり易く説明されている。特別展示の、地中の遺跡を掘る前に磁気、電磁波、電気抵抗、
定常波、を測定し、遺跡がどのあたりにあるかを調べる最新の方法の紹介はおもしろく興味深かった。また、
古墳の堀の跡が水分を通しにくい土層となっているためにここに水がたまって、現在農場となっている所を航空写真で撮ると、
微妙な成長の違いが陰のように現れ、どこに古墳が位置するかがわかる、というのには驚いた。
さて、今度は、飛鳥寺に向かう。境内は作られた当時の20分の1にまで縮小されてしまっているが、訪れる人は絶えない。
中に安置されている仏像は、右側から見ると厳しい顔に見えるのに対し、左側から見ると、温和に見える。ある時は厳しく、ある時は優しく、
という仏の教えを表しているそうだ。
この飛鳥寺の西にちょっと行ったところに、さりげなく、蘇我入鹿の首塚がある。腰ぐらいまでしかない小さな石の塔が建っているだけだが、
ここも、訪れている人は多い。
ここから4、5分の所に酒船石がある。これは山の上にあり、東西に長く掘ってある溝は、天文学に関係があるという説もある。
さて、今度は石舞台古墳をまわった。歴史の教科書に、蘇我馬子の墓ということで、写真が載せられていたが、その写真から受ける印象と現地の様子は少々違う。
驚いたことに、まわりを高い生け垣で大きく囲って、入場料を払わないと、石が見えないようにしてある。しかたなく、210円払って中に入れてもらう。
見えるものは、芸術品とは言い難い、ただ大きいのが取り柄の、石の集まりである。もちろん、この巨大な石をどこかから運ばせてきた支配者たちにとっては、
とても意味のある、貴重な物なのであろうが・・・。この手入れの悪い生け垣は、古都に生き抜く現代人の商魂のたくましさを感じさせる。
文化財の保護や保存にはお金がいるのだろうが。
後程でてくるが、法隆寺の前の交差点に、ぼっくり寺・・・とかいう看板があったが、誰だったが、ぼったくり寺と読んでいた。
こちらは、ぼったくり古墳というとこかな。
聖徳太子生誕の地、というのがここから西に約10分の所にあったが、ただ石碑があるだけである。そして、亀石につく。亀の形に石を彫って作った物で、
亀はねぼけているようなかわいいおもしろい表情をしている。もちろん、ただの置き物ではなく、何らかの呪術的、
そして社会的政治的な意味のあるものとして作られたのだろう。
最後は、高松塚古墳を見た。案の定、閉鎖されていて、後ろ(北側)の空調施設を外からちょっと見ただけだった。近くの文武天皇陵もまわったが、
ただ森があるだけという感じでおごそかな感じなどはもうしない。陵によっては、怖がられる森になっているところもあるだろうが、この方がいいのだろう。
埋められた諸々の物が、長い時を経て、分解されて、栄養になることが(物理的にも精神的にも)、いいことなのだと、古墳が語りかけているようだった。
後は、飛鳥駅から宿へと向かう。
今日は、いよいよ山の辺の道の散策である。
この道は、日本最古の道と尊重されているだけあって、大変眺望の良い、のどかな道である。今回は、桜井駅から北の天理へと歩いた。
途中で雨が降り始め、ぼろぼろの傘の僕はかなり閉口する。
大和川を渡った所で、親切なおばさんに道を教えてもらい、無事、はじめの目的地である、海柘榴観音(つばいちかんのん)に到着した。
見かけはちょっとした観音堂だが、昔から、この辺一体を見守り続けてきた由緒ある観音様なのだろう。
ここで祈った御利益があったのか、ありがたいことにその後晴れてきた。
次は、金屋の石仏である。これは、大きな石盤に仏を彫ったものである。
この辺りは、両側を畑に囲まれたのどかな道である。所々、道の片側に用水路があったりして、田舎っぽくていい感じである。
そして、漸く大神神社に到着した。三輪山を神体とするこの神社は、一部が修理中であるが、多くの人が訪れていた。ここで別の班とも出会ったが、
彼らは、三輪駅から来たと言っていた。ぼくは、桜井駅から来るのが正当派だ、などと思いつつ、ここを後にする。
この辺りから山の間を縫った道が多くなり、傾斜が35度くらいある所もでてくるようになる。狭井神社近くで、古い、危ない、気付きにくい、
暗い、小さな、深そうな池があった。何かが飛び込む音がしたのを聞いて、ある人が、「ぼろ池や、蛙飛び込む、池の音」とか詠んだ。
言いそうなことであるが、おもしろかった。
だんだん道の高度も上がってきて、市街地全体を見渡せるようになる。さずが、いにしえから親しまれている道だけあって、大変景観がよい。
ただ、民家がここまで押し寄せてきており、視界がかなり遮られているところもあって、少し残念でもあった。
また、山道になる。玄賓庵は、山の中に突然豪華な屋敷が現れた、と言う感じだった。
次に着いた檜原神社で、休息をとった。この参道の先には、市街地が見えるが、いつだったかにNHKのスペシャルで見たアンデスの高地にある似たような道の先には、
海が見えていたな、と思いながら何分か休んでいると、ホトトギスのさえずりが聞こえてきた。
この後は、ちょっと谷を大回りに回っていかなければならない。山の辺おばあちゃんの手作りという看板のかかった無人販売所があり、
シソふりかけ、粕漬け、木の実の干したものなどが売られていた。この道の片側には、かなり大きな用水路があり、朝の雨をあつめて、
勢いよく水が流れていた。この谷を越えると、山道を出、風景はがらっと変わって、山の裾野の畑の畦道と言う感じになる。
トトロにでてきたような風景の右側(東側)には山が、左側(西側)には市街地が見え、ちょっとちぐはぐな感じもする。
もう昼近くで、下に下りるために、景行天皇陵の辺りで、国道に向かう。天皇陵といっても飛鳥のそれは小さいのに対し、こちらのそれは、
大変大きく、一周が1キロほどもある。
ここから歩くこと約1キロ、大きな堀に囲まれた崇神天皇陵に着く。陵の正面は、よく写真で見るが、全体を見たのは、今回が初めてである。
入り口にはどれも宮内庁の管理小屋があって、係員が常駐している。
ここで、柳本駅に進路を変え、黒塚古墳を通る。
公園の中に古墳が位置し、古墳の上まで登れるようになっている。前方後円墳の感じがよくわかった。考えてみれば、お墓の上に登るというのも失礼な事だが、
トトロのお腹の上に登っているような気もする。ここからも市内がよく見渡せるが、木々がちょっと邪魔をしている。
通っている時、近くの小学校から校内放送が聞こえて来た。子供が関西風のアクセントでしゃべっている。古墳に埋められた人たちは、
どんなふうにしゃべっていたのだろう。
こんな感じで柳本駅に着いたが、食べるところが全くない。あるのは、材木屋、散髪屋といった食品に関係のないものばかり。
そこで、奈良駅まで向かうことになったが、奈良駅で反対ホームに発車間際の法隆寺方面の電車が止まっていたのに押されて、法隆寺駅まで行くことになった。
法隆寺駅前には、幸いうどん・そば店があり、昼食にありつけたが、もう2時も越えており、みんな不機嫌そうだった。
法隆寺は写真で見たとおり、かなりかっこいい寺だった。参道が150メートルほどもあるのには驚いた。ここで先に述べたぼっくり寺の看板を見た。
まず、西側の西の院から回った。
この辺りで、別の班に出会った。聞くところによると、ある班員が、歩くのが速すぎて、班が分裂してしまったそうだ。そんなのも困りものである。
6人班なのに、3人ほど取り残されて、困っていた。
そしていよいよ伽藍に入る。ここは拝観料が高い。それでも多くの人は訪れる。
左側には五重塔が、右側には金堂がそれぞれ見える。ここをいろいろと回るが、他の修学旅行の人々が大変多く、かなり混雑している。
大宝蔵院は最近建てられただけあって、新しく、博物館のようである。ここでは、百万陀羅尼の実物を見ることができ、
初めての印刷物が何であるかがわかって良かった。今までは、あの塔のような物で印刷するのかな、おかしいな、と思いつつ見ていたが、
あの塔は、印刷物を入れる容器だったのだ。
さて、今度は、夢殿である。その経路の途中の、東大門から四脚門までの道には、何軒かの屋台が立ち並び、学生たちが群がっている。
おみやげの中に、鹿の糞と言うのもあった。チョコピーナッツらしいが、何日か後に奈良で見た鹿の糞は確かに似ているといえば似ているかもしれない。
八角形の夢殿の中には、かなり傷んでいるが、優美な像があった。
法隆寺をまわった後、平城京址も回ることにしたが、復元の礎石が残っているくらいで、あとはだだっ広い野原である。
班員の某氏が言い出して、倹約のため、ここから、3キロほど離れている宿まで歩くことになった。彼に限らず、うちの班員は経済的観念が高く、
なかなか乗り物を利用しようとしない。僕としては、班員の和を第一に尊重して、乗りたい気持ちを抑えて、ひたすら歩く。
このときは、歩き疲れて、結局一つ手前の駅から電車に乗った。ちょっと宿につくのが遅くなったかな。
今日は、朝は薬師寺である。朝早くで、参拝客はまだおらず、参拝は楽にできた。ただ、雨が降り始めたのは残念であった。講堂は修理中だったが、
瓦などの寄進を募集していた。こういう所には、係員が詰めているものだと思うが、この5日間に行ったところではどこも、
寄進は募集しても係員は置いていなかった。たぶん、寄進はしてあげるものでなく、させていただくもので、自分で尋ねて、
持ってあがるもの、という考えなのだろう。
本伽藍の次は、玄奘三蔵院の壁画を見る。平山画伯の様々な絵が壁一面に掛けられていた。中でも、中国の広い荒原の絵は印象的だった。
今度は、平城京資料館を回る。ボランティアが案内してくれる、かなり親切なところである。しかも、出土品が捨てるほどあるようで、
それらのいくつかには触れることさえできる。平城京は、かなり広い。資料館にあった航空写真で、
前日に回った法隆寺駅の一つ手前の郡山駅の辺りに羅生門があったと言うのを知って、改めて、京の大きさを実感した。
ここでは、出土した品々をどのように保存するかも示されている。出土したては緑色の葉っぱも、すぐに茶色くなって、ぼろぼろに崩れてしまう。
そこで、出土品のなかにポリエチレングリコールをしみこませて、保存が利くようにする。
また、出土品の年代には幅があるが、どのように年代を測定するかも示されていた。年輪や放射性炭素などを使って測定する。
教科書によく出ている木簡も、実物を見られるのは楽しい。
今度は、奈良の国立博物館と東大寺を目指す。
奈良の国立博物館には多くの仏像が展示されていた。如来、菩薩、明王、天の違いが分かり易く示されていて良かった。幼い子供たちもたくさん訪れていた。
また、説明のボランティアというのもいて、いろいろと説明してくれてよく分かり、良かった。
新館に続く地下回廊には、仏像の作り方も示されていて、いろいろと知ることも多かった。
新館は、絵巻物の展示があった。古文で習った絵巻物の実物を眼前に見ることができ、大変感慨深かった。
次は東大寺、鹿の糞が好き勝手にそこら辺にぼろぼろ落ちている。確かにチョコピーナッツに似ている。
さて、東大寺は噂通りかなり大きいが、全然空調の管理をしていない。鋳造品の仏像は空調管理が不要なのかもしれないが、これが木彫りだったら、
一年で崩れてしまうだろう。
もう時間なので、宇治に向けて発つ。奈良線で一本(直通)だが、学生が結構乗っている。
宇治の平等院は、かなりぼったくりで、境内に入るのと鳳凰堂に入るのが、別料金になっている。鳳凰堂の両側の二階は、飾りで、梯子がなければ上がれない。
堂の内部の壁には、多くの、楽器を奏で舞う供養菩薩像があり、あの世にまで栄華を求める藤原頼通らの、もっと、もっと、もっとたくさん、いつまでも、
いつまでも、いつまでも幸せでいたい、という気持ちが伝わってくるような気がした。
鳳翔館では、壁にあった供養菩薩のいくつかが間近に見ることができた。
池の東側からの鳳凰堂は、よく写真で見るが、西側からの風景は見ることがなかった。実は、堂の入り口の反対側(池の反対側)
にも結構長い回廊がついているのがわかった。
そして、後は京都へと向かう。
この日は、御所、下鴨、上賀茂、金閣、仁和寺、竜安寺、本能寺、池田屋跡と、たくさん巡れた。
はじめは、御所である。予約が必要と言うことで、先生が予約してくださっていたが、ぼくらの他にも、老人の団体が一緒に見学していた。
檜皮葺きはかなり傷んでいたが、柱は朱で塗ってあってきれいだった。殆どの老人は、カメラを持ち、色々と撮りまくっていた。見られた所はかなり少なく、
30分位で終わってしまった。けれども、檜皮葺きの神殿を望めたのは良かった。
そこで、今度は下鴨神社に向かう。正確には、賀茂御祖神社と言う。
この神社一帯は、森に囲まれており、糺(ただす)の森と呼ばれている。ずいぶんさわやかな森である。
そこら辺の神社についているおまけのような森とは違って、どっしりとした森である。
境内に入って、まず目につくのが、朱色の神社の柱である。そして、緑色の格子と対照的で、大変きれいに見える。
この辺一帯は世界文化遺産に登録されており、大炊殿も見られるようになっている。初めて、お供え物を作る建物を見られて興味深かった。
ただ、虫食いがひどく、展示ケースの内側を蟻が歩いていて、ありっ、と思うこともあった。ここには、
昔から使っていると思われる料理道具も何気なく置いてある。昔からずっと続いてきた伝統を、今も守っていることのすばらしさを感じた。
また、隣の御車舎では、行列に使う衣装も展示してあり、大変美しい物が見られて良かった。十二単の実物を見たのは今回が初めてである。
葵祭りは、御所を出発して、下鴨を通り、上賀茂に向かうわけで、次は、上賀茂に向かう。この間は、タクシーで行った。途中で、深泥池を通ったが、
近くに結核の療養所があったり、怪談のテレビロケがあったりして、住民はあまり近づかないそうだ。何百年も前から、物の怪たちが住んでいると、
恐れられているところなのだそうである。
上賀茂まで来る観光客は殆どおらず、道はかなりすいていた。
上賀茂は、正確には、賀茂別雷神社という。下鴨に比べて、かなり小さな神社であるが、参道はずいぶん長く、両側の所々に儀式のあとが残っていた。
ただの石盤に紙垂(しで)が張られてあったりする。お金を取らないと言うことと関係があるのかどうかはわからないが、小さくても、結構いい感じの神社で、
境内に川(この川が、あの、風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける、の小川)が流れており、いつまでいても飽きなさそうなところだったが、
昼も近くなり、近くの食堂に向かう。
この辺は京都の北と言っても、山の辺のように京都全体が見渡せるわけではないのがちょっと残念でもある。
さて、今度は進路を西に向け、金閣を目指す。バス停の名には、「・・道」というのが多く、「・・前」というのもあって、分かりにくい。
金閣には、多くの観光客が訪れていた。ここは、入場券がお札になっていて、至る所に、「お札のいらない方はここへ入れてください」
という看板の出た札入れがある。班員の某氏は「もう、家にいくらかあるからいい」などと言って、持って帰ろうとせずに入れていた。
そこら辺に捨てるよりはましだが、もったいない気もする。ある人は、「再利用するんだ。」と言っていたが、確かなところはわからない。
一枚の紙切れを、ご大層に包み込んで何千円もで売るのも感心しないが、やはり、お札はおふだらしく提供しないと、ありがたみが減るようだ。
ところで、金閣には仏像はない。それだけでなく、鹿苑寺自体に、仏像がない。石不動明王があるだけである。寺といっても様々な種類があるのだ。
鹿苑寺は禅寺なので、仏像がないのだろうか。
鹿苑寺のパンフレットには、英語表記もあった。有名な観光地には海外からの客への配慮も欠かせないのだろう。行き届いた配慮だと思ったことだが、
後ほど訪れた竜安寺には、その上に、目の不自由な人用の、手で触れることのできる小さなミニチュアの石庭もあった。
さて、今度は、仁和寺。
今回の旅で、一番、来てよかったと思った所である。
徒然草に出でくる愉快な坊さんたちののびのびとした精神形成はこの環境に負うところが大きいのかもしれない。
宸殿はゆったりとした住み着きたくなるようないいところで、その前は、すばらしい庭園で、ぼくは縁側に何分間か寝そべっていた。
白砂にシンプルに模様をつけているのが、さっぱりした中に深みがあり味のある所である。ここの説明板には、日英両方があった。英語を読むと、
外国人には特異と思われるという所がピックアップされており、なるほど、うまく紹介するな、とおもしろかった。ここだけは、
取られたお金相応の物が見られたな、と思った。
いよいよ金堂に向かう。東側にある経蔵は、かなりけばけばしい配色で、赤い壁に緑色の格子、という配色構図である。隙間からは、
木馬や経の収納庫が見える。こんなのが、仁和寺の代表として時々博物館に展示されるのかと思うと、複雑な気持ちになる。
時間があったので、竜安寺も回った。ここから歩いて5分くらいの所で、ここもパンフレットに英語表記がある。英語はシンプルでいいな、
と思わせてくれる文章である。ここは、石庭はもちろんのこと、つくばいに彫ってあるなぞをかけた文字も印象深かった。
ただ、石庭は、周りを囲っていて、自分を世界から隔離して、入ってくるものを拒絶しているようでもあり、ちょっと気に入らないところもある。
こんな事を言うと、心を分かっていない、と言われるかもしれないが、これが、率直な感想である。
あとは宿を目指して一直線、というところだが、ちょっと時間があったので、先祖が信長、という班員もいることでもあり、本能寺もまわった。
本能寺の入り口は、ビルの谷間の手を広げたほどもない幅であったが、中に入ると、普通にお寺らしい感じだった。
本能寺の変の碑や、供養の碑もあって、某氏は拝めてうれしそうだった。
帰りに、池田屋跡というのもあったが、パチンコ店の前に小さな石碑が残るのみだった。
今日は最終日。古都巡礼も最後のスパートと、気合いを入れて巡る。銀閣、清水寺、京都国立博物館、三十三間堂、と予定きっちりである。
さて、銀閣は金閣と同じく、仏像はまつられていない。ここは、観音菩薩がまつられているらしい。
入って目に付くのは、向月台と銀沙灘である。ただ、あまりにも作ったという感じがして、あまり好きにはなれない。
その東側にある、庭園のほうが気に入った。こんもりと生えた杉苔のなかに低木が生えていてとても良い感じである。
なのに、パンフレットには全然この写真が載っていない。たぶん、この庭は、ウリにしてないからなのだろうが、よい庭である。
ところで、なぜかは分からないが、京都の土には、苔がよく生えるみたいだ。土質が合っているのだろうが、それにもまして、
古都を守り続けようとする人々の愛情と熱意が、日々の水やりや行き届いた手入れとなって、美しい庭を育てるのだろう。
つぎは清水寺である。
ここまでは、チンチンバスというたまに走っているバスで行けた。このバスの中には、驚いたことに売店がある。もともと後部座席がある所で、
ネクタイピンとかネクタイとか山高帽とかがセルフサービスで売られていた。このバスで売られている物は、紳士物だったが、他のバスでは別の物かもしれない。
観光客を当て込んだ(というと悪いかな)古都の商魂のたくましさがここにもある。
しかも無人販売だけれども運転手がいる、というところが芸を感じるシステムである。
さて、現地に着いてみると修学旅行生がかなり多く、見て回るのが大変だった。音羽の滝の方には、小学生が何百人と並んでいたので、断念せざるを得なかった。
ここから下山する途中、八つ橋付き抹茶ソフトクリームとかいうのが300円で売られていた。高い、とは思ったが、結局買って食べた。
たいへん美味で、東京で食べられないのが残念である。おいしい抹茶ソフトの上に、パリッとした八つ橋を乗っけて売っているのである。
この、八つ橋を乗っける、というところが、特許を取れるくらいのアイデアで、極上の美味となっている。
京都国立博物館は時代毎に分類してある。かなり広く、すべてみるのに優に2時間はかかった。奈良のそれと同じように、
教科書でよく見る物の実物が置いてあり、これが本物なんだ、ほんとうにあった、と歴史に触れる実感が湧いた。
この中で一番心に残ったのは焼き物である。鉛や鉄や銅といった物を含む釉薬を全面に塗ってから、削って模様を出したり、
直接描いたりして、作られたという様々な模様には感動した。
最後に三十三間堂を回った。
仏の数もさることながら、こんな大きな壊れやすそうな建物をよく作ったな、と感心する。耐震構造で造られているそうだが、
そんなふうには見えない。繊細さを感じる、優雅なものである。
ところで、これまで見た歴史的建物には、すべて避雷針がついていた。ただ、建物の中には、設置できないので、
屋根の上の避雷針からずっと鉄棒(避雷針と同じくらいの太さ)をひっぱりたらしてきて、一番下の屋根(地面から5メートルくらいのところにある)の少し下で、
地面に立ててあるコンクリート製の高さ3メートルくらいの角形電柱の中に入れて、そこからは電柱内部を通って地面に引かれている。
(もちろん、鉄棒が丸出しになっていたら、人が触れて危ないからである。)電柱の下には、避雷用の素子が埋め込まれていた。
殆どの観光客は気づかないだろうが、文化財の保護という観点から見ると、大変重要な事である。古都の文化遺産を守る人々の、愛情と熱意、心配りが感じられた。
最後は回廊をまわる。
もう帰京しなければならないのが、残念である。
今回の旅行ではかなり多くの外国人を見かけた。また、英語で説明している人も見かけた。つまり、世界中から人が集まっているのだ。
多くの人を惹きつける古都の魅力、伝統の力を感じるとともに、それが、現代を生きる人々に、どう必要とされるのか、
ということについてもいろいろと考えさせられた。
神社仏閣について、もっと知識を深めて、また、訪ねたい、また巡りたい。
旅行委員の諸兄、先生方、関係の皆様、いろいろとお世話になり、ありがとうございました。
17歳の古都巡礼は楽しくおもしろく、明るい気分で巡った旅でした。
ほんとうの巡礼は、悲しいことがあって、心の中の大きな山を、自分の力だけではなかなか乗り越えられなくて、
救いを求めて、助けを探して、暗い気持ちで歩くものかもしれません。巡礼というにはおこがましいような、今回の古都巡礼から、
無事、帰京できたことを、力をかしてくださったすべての方々に感謝して、謝辞とさせていただきます。ありがとうございました。
第二次世界大戦の頃、青年達が古都巡礼をして、特攻隊に志願して、若い命を散らしていった、という話を聞いたことがある。 人生の終わりを覚悟して、切羽詰まった気持ちで歩く古都巡礼は、どんなに苦しいものだったろう。自分の死の意味を見つけるために、 逃れようのない運命を背負って、歩いた若者達。そんな悲しい古都巡礼を、この先、誰もすることがないように、 当たり前に享受している平和が本当に尊いものであるということを、守り続けて行かねばならない大切なものであるということを、最後に心に刻んでおきたい。
Q: Do you know what the death rate around here is? A: One per person. The most sympathetic interpretation of why CS departments are so enthusiastic to dumb down their classes is that it leaves them more time to teach actual CS concepts, if they don't need to spend two whole lectures unconfusing students about the difference between, say, a Java int and an Integer. Well, if that's the case, 6.001 has the perfect answer for you: Scheme, a teaching language so simple that the entire language can be taught to bright students in about ten minutes; then you can spend the rest of the semester on fixed points. Feh. I'm going back to ones and zeros. (You had ones? Lucky bastard! All we got were zeros.) -- Joel Spolsky -- "The Perils of JavaSchools" ( http://www.joelonsoftware.com/articles/ThePerilsofJavaSchools.html )