http://www.sanshiro.ne.jp/activity/01/k01/schedule/6_15a.htm
駒場の学生にできること
私のしてきた4つの仕事
6月15日 宇井純
このように皆さんの前で話をするのは、実は長いこと考えられないこと
でした。
私はかつて、東大工学部の都市工学科の助手を21年間つとめていました。
助手が教授の命令なしに自分で講義を用意して学生に聞かせることは、制度
上できませんでした。
教授会の申し合わせという確かめようのない制限のおかげで、私は21年
助手をやりながら学生実験担当助手という極めて制限された場を除いては
一切学生にさわることができなかった。
しかし、そのような場所のなかでいろいろなことを試みた一端を、91年に
NHK人間大学の一連の講義で話しました。
「水が生活の中でどのように我々生命に関わるか」という話に始まる、
公害問題をも含む内容です。これが私の仕事の一つです。
もうひとつは、下水を処理して再利用するという下水処理の実験研究
です。これは今でも続いています。
私が自分で化学実験を初めてやったのは、小学生の2年生でした。
ジャガイモをつぶしてデンプンをとるとか、それにヨウ素をかけると色が
変わるなどの実験です。
当時は毎日が驚きであり、楽しみであった。
そのことから始まって化学を志し、この教養学部では化学部に入り化学の
おもしろさを勉強しました。
そして、卒業して当時ちょうど生産が始まったばかりの塩化ビニル(PB
C)の生産に飛び込んだ、そういう年代です。
今でも水処理の実験は続いておりまして、沖縄大学(しばしば国立の琉球
大学と間違えられ、侮辱を感じますが)という、小さな化学実験室ができ
たのが十年前という大学にいます。
そこでは、これは日本の最先端だと思いますが、豚や牛の畜産排水を無希釈
で処理し、それを肥料などに利用するという実験をしています。
実験屋としての60年のキャリアが私の二つ目の仕事です。
しかしその仕事の中で水俣病にぶつかりました。
これはどうしてもほっておけない問題だと思いまして、それまでの化学工学
のプラスチックの加工研究から土木工学の排水処理に転科しました。
そこで博士課程を過ごし、東大の助手になりました。
ケーススタディとしての水俣病、そこから始まり日本・世界の公害をずっと
調べてきました。
これが私の仕事における三本目の柱です。
そうやって調べてきたことを学生に教えるよう教授から命令が出たの
が、1970年です。
但し、公害の技術的な側面に限るように条件が付きました。
私はそれを拒否し、自分の調べたことなら報告できると答えました。
しかし助手は独自に講義を開き、学生に教えることができません。
ドイツの大学に昔からあったシステムに、大学を出て学者になろうと志した
若い研究者が大学周辺に部屋を借りて、市民・学生向けの講義を開く。
それが好評だと教授会もその人を教授に昇格させて仲間に入れる、という
ものがあります。
私はそのような講義を日本でもやってみたのです。
国立大学の教室というのは夜は空いていますから、そこで市民に呼びかけて
「公害原論」という自主講座を開きました。
幸い大変な成功を収め、1970年から85年まで続きました。
86年に私が沖縄大学に移ったため、残念ながら閉講せざるを得なかった
のですが。
環境教育あるいは社会教育の試みとして、一つの仕事をやったなと思って
います。
複数の専門分野を持て
このような4つの分野について私は取り組んできました。
そこで若い学生さんに勧めたいことは、複数の研究テーマを持つこと
です。
なぜかというと、一つの分野で行き詰まった時に他の分野に逃げることが
できるからです。
特に大学院の博士課程は、今振り返ってみても非常にきつい制度です。
一つの分野に取り組んでいると必ず波がありまして、大きな壁にぶつかり
ます。
そういうときに他のテーマがないと大変苦しんでしまいます。
私も廃水処理で行き詰まると水俣へ行き、患者に勇気づけられて戻って
きました。
研究費について
私は実験を続けて60年になります。
これぐらいの経験がある人はそういないと思います。
実験には一種の麻薬作用があり、一度やり出したらやめられなくなります。
そして、しばしば夢中になるあまり周りが見えなくなりがちです。
大部分の科学者はそのような人です。
水俣病が起こった当時、日本の科学者の中で水俣病を何とかせねばと考え
た人間は、ほとんどいなかった。
また当時はマルクス主義が流行でして、九州の端で起こった事件などに取り
組んでいると世界が見えなくなる、というのが私の周辺の人たちのだいたい
の反応でした。
しかし私は水俣病の患者を見てしまったものですから、水俣病から逃げら
れません。
さらに、あまりにも悲惨な事件であるため、それをテーマとして研究費を
請求する気になれない。
実際これまでに、国から研究費をもらったことはありません。
全部自分の金を使うか、国際会議の招待で行くなどでした。
しかしこれは、あとあと大きなプラスになるのです。
なぜなら、人の金で外国に行くのはつまらないです。やめた方がいい。
自前で行くのであれば、少しでも多くのことをつかんでいこうとして帰り
ます。
例えば、ヨーロッパに下水処理の研究をしに国の金で行った研究者や議員は
数万になります。
しかし、視察をして下水管と処理場の前後関係という肝心なポイントに気が
ついた人は、五万人中五人といない。
研究というのは原則的には自費でやるのがよい。
そのほうが、政治的な要素に縛られなくてよい。
40年経ってみると、当時マルクス主義にとらわれていた人たちはほとんど
消え去りました。
1テーマで10年研究せよ
水俣病を掘り下げれば向こうに世界が見えてくると信じた私は、予想通り
水俣病を通して世界をみることができた。
みなさんも、これが大切だと思ったことを10年やれば、飯を食えるように
なります。
20年やれば、世界の最先端に出られます。
もしそうでなければ、研究テーマが悪いからです。
教授から与えられたテーマなのでしょう。
そのようにして一生無駄にしたような人を何人も見てきました。
私のいた都市工学科では、東大闘争で一流二流は外へ出ていき、三流四流が
大学に残っていきました。
この打撃は、今でも回復できません。
教養学部の重要性
レイチェルカーソンの"Silent Spring"が、最初に環境問題を世界に訴えたと
言われていますが、その少しまえにドイツのビュンター・シュワフという
作家の"Tanz mit der Teufel"というSF小説が出ていました。
ヨーロッパの物質文明が悪魔に支配され、破局に陥るという内容です。
その中に「大学教授をたぶらかせば三、四十年はオレのものだ。なぜなら、
その弟子も言うことを聞くから」という悪魔のセリフがありましたが、
それは東大のこれまでの状況にぴったり当てはまると思います。
それでも、東大には伝統を引きずって教養学部がいまだにあります。
一方、東大以外の大学は教養課程をなくすという大失敗をしてしまいまし
た。
その後にオウム真理教の事件が起こりまして、教養無き専門家の危うさが
浮き彫りになったのです。
東大教養学部のみなさんは、非常に幸運です。
そのように、自分がどのへんの位置にあるかは承知しておいた方がよいで
しょう。
環境教育の歴史
さて私の4つの柱が環境科学とどのように関係するのかという話ですが。
日本では1960年代後半から70年代のひどい公害に直面し、心ある
先生方が工夫をして公害教育を用意しました。
源流は、1964年の三島沼津コンビナート反対運動の成功です。
高校の先生が中心になり「自分たちの科学・住民の科学」を提示しました。
例えば、コンビナートを作った時に出てくる煙の広がり方を予測するため
に、五月に鯉のぼりの向きを高校生が調査したことがありました。
そして、それを環境アセスメントに利用しました。
このように学校の可能性が認識され広まっていきましたが、このような
公害教育運動は文部省にとっては反体制であり煙たいものだったので、
公害教育は体制側からにらまれてずいぶん苦労しました。
1968年に、熊本の中学校の本田先生が初めて水俣病を教材に取り上げ
ました。
それに対する教育委員会の反応は強烈なものでした。
「そのような暗い問題を何故生徒に教えるのか。」といわれた。
それに対して本田先生は「明るい公害と言うものがあるのならば教えて
ください。それを生徒に教えますから。」といって教育委員会を詰まらせた
ということもありました。
そのような圧迫をはねのけて、なんとか公害教育は続いています。
これに対して、1972年にストックホルムで国連環境会議があり、そこ
で環境教育の重要性が決議されました。
加盟各国は環境教育をやる義務が生じたわけですが、そこで文部省が打ち出
したのは公害に触れない環境教育としての自然保護教育でした。
それはこれまでの自然保護の流れに乗って多少は展開しましたが、伸び悩み
ました。
73年の石油ショック以降の慢性の不況で、世論は環境より食うほうが先
だということになりました。
それ以来の約20年間、日本は「環境問題における失われた20年」に突入
します。
日本の公害政策
日本の公害の経験は欧米に比べて約10年早いが、それに対してきちんと
した手を打ってこなかった。
それは、資本主義国でしかも財界の金をもらって生きている自民党が支配層
として続いてきたためだ。
日本の政府が伝統的に取ってきた公害対策は次のような政策だった。
公害が起こった時、最初は被害者の声を無視する。
無視ができなくなると、心配するなという。
しかし心配しなくてはならないくらい被害が蓄積すると、最小限の対応を
する。
そこで東京大学が使われた。
例えば水俣病の場合、漁民乱入事件があったあとにわずかの保証金がきた。
一方で、東京大学の権威を利用して水俣病は工場排水が原因でないという
切り崩しにかかった。
そのような経過のくり返しであった。
従って日本の公害対策は物理学で言うrelaxation(緩和現象)の積み重ね
であったと思います。
歴史と責任
例えば、環境法の勉強は法律の先生を呼んでくればできるでしょう。
しかし私は、その背景にある「どのようにしてその法律が歴史の中で発生
してきたのか」ということを絶対に忘れてはいけないと思うのです。
私は、1970年から1971年にかけて公害に関する論文を2年間に
800本、他の仕事の合間に読みました。
時間がない中であるため斜め読みをするしかありませんでしたが、その中で
読むに値する論文には二つの条件があることがわかりました。
一つは、公害の歴史について触れていること。
二つ目は、科学者の責任について触れていることです。
私の経験からは言えば、歴史と責任について書かれていない本は終わりまで
読んでみてもあまり得るものがないと思います。
ちょうど今は環境問題の第二次ブームであり、皆さんは環境問題を勉強する
にあたって多くの本の中からの選択を迫られると思います。
いわゆる理系分野の論文の大部分は、歴史と責任について触れていませ
ん。
現実にもそのような例をみることができます。
例えば、白金から早稲田に移転した国立予防医学研究所です。
この中では伝染病の病原体を扱うため、高度の防護施設が必要になります。
しかし、そのような施設が完全に動くとは限らない。
従って、そのような危険な施設を街なかに作ってはならないはずなのに、
その中にいる研究者で危険だという内部告白をしたのは、600人中一人
しかいない。これが現実です。
科学者と言われる人間が、どれほど自分の利益のために良心を曲げるか。
国立大学の教員には身分保障があり研究の自由があるにもかかわらず、
水俣病に関する研究をした人は東京大学では私ぐらいです。
これは大変なことだと思います。
むしろ医学部の教授などは大学からお金をもらって水俣病のもみ消しに荷担
をしていた。
田宮委員会はチッソとの板挟みの中、水俣病の原因をプランクトンにあると
した報告書を出しました。
これは現在残っている唯一の文書です。
ぜひ見てみてください。
それくらい日本の科学は体制べったりになっているのです。
環境問題の教科書づくり
皆さんは、そのような国立大学で今から学問を学ぶわけです。
そこで皆さんに勧めたいのは、教科書を作ってみたらどうか、というもの
です。
最低限これだけは抑えておかないといけないという客観的な事実がありま
す。
水俣病の歴史も客観的な事実です。
水俣病もみ消しに東京大学が荷担したこと、また有限の世界での生物の個体
数の変化などです。
日本の「失われた20年」の間に、アメリカではこんな環境問題の教科書
を作っていました。
様々な事実が図面・写真入りで懇切丁寧に説明されてあります。
教科書を作るといっても、最初は薄っぺらいものでしょうし、一人では作れ
ません。
しかし皆さんには「何も知らない」という強みがあります。
「何を知りたいのか」さえあれば、今の東京にはそれにきちんと答えられる
先生がいます。
疑問点は、そのような先生に教えてもらえばよいでしょう。
今出ている環境科学の教科書はテクニカルな内容がほとんどで、現実の
公害のことは捨象されています。
銀行型学習と問題解決型学習
ということで、今の若い皆さんが自分の問題意識で勉強するのが一番よい
と思います。
それはもう一つ別の経験があるからです。
大学までに受けてきた教育は、できるだけ知識を詰め込んで、それを必要な
時に取り出すことを目指してきました。
端から見ていたパウロ・フレイレという教授は、このような勉強法は銀行型
学習だと言っています。
それでは使い物にならない。
一方彼は、ブラジルのスラムで識字教育をする上で、問題解決型学習という
ものを編み出しました。
それぞれにとって一番大切な問題は何か、そのためにはどうすればよいか、
と考えていくものです。
スラムでまず出てくる問題は貧困。
いくら働いても儲からないのは搾取のため。
これは経済を学べばわかる。
女性にとっては暴力が一番の問題。
それは植民地の歴史を勉強すればわかる。
問題解決型学習とは、このような学習です。
今ではインターネットなどの技術が発達していますが、インターネットを
使って情報収集をしていると、人生の半分ぐらいを無駄遣いしてしまった
なあと思っています。
そのために、我々は世界がどのように成っているのかという世界像を必要
とします。
つまりは、教養です。
歴史や責任については特にそうです。
これを私に教えてくれたのは、イバン・イリイチというメキシコの哲学者
です。
支配者の学問は歴史を必要としない。
その場その場を切り抜ければいいからだ。
ただし、支配される側の学問は歴史を必要とする。
「なぜそうなったのか」ということについて主体として考えなければなら
ないからである。
矛盾点にこそ真実がある
皆さんが知らないといけないのは、情報の洪水のなかでどの情報が信用
できるかを知ることです。
公害の因果関係を調べていくと、いろんな情報が出てきます。
その中で、一致するものはたいしたことないのです。
矛盾した情報こそがおもしろいのです。
矛盾している情報について掘り下げていくとそこに真実があります。
水俣病の因果関係を調べていった時に、熊本大学は原因は工場排水の中の
水銀だとしたが、東京工大の清浦教授は腐った魚だといった。
その根拠は、日本中の各地を調べると水銀の多い場所はたくさんあり、
そこで水俣病は発生していないからだ。
社会的に混乱を引き起こすからその場所は言えないという。
この対立した意見のどちらが正しいのか。
清浦先生は化学工業をバックにつけていたが、関係者から聞き出したところ
対象地は直江津だった。
直江津には水俣と同じアセトアルデヒド工場があったため、清浦教授は場所
を伏せたのです。
私にとって水俣病の因果関係は、この事実で証明されたと思いました。
もう一つは、細川先生の水俣病を発病させたネコ実験です。
この二つがあれば、工場排水で水俣病が起こったということは証明されたと
思います。
それに気がついたのは、矛盾していたからなのです。
同様のことが足尾鉱毒事件でもいわれていました。
矛盾しているような事例についてどちらが正しいのかわからない時は、
両方正しいとしたらどうなるのか、一方だけが正しいとしたらどうなるのか
という思考実験を試みるとよい。
思考実験により真実が見えてくる、いろんなことが分かってくると思いま
す。
「国へ帰れ」
話があっちこっちに飛び、だいぶ皆さん苦労していると思いますが、結論
として言えることは、「分からなくなったら現場に出ろ」と言うことです。
そうすればたいがいみえてきます。
私の場合は、水俣や栃木でした。
東京にいると気が滅入ります。
孫の代まで地球は持つのだろうか、などと考えるときりがありません。
例えば湯布院や臼杵、風無などの地方に行くと、未来どうなってもここだけ
は残るだろうという希望を持てます。
自主講座で学生に勧めたことは「国へ帰れ」ということです。
そこで村会議員になれということです。
みんな官僚を目指す東大生に本当は言いたかった。
私の同期で官僚になった人は、悪いことをしている人が多い。
村会議員になれば悪いことはしないだろう、ということです。
自主講座は大衆大学の学生が多かったのですが、実際地方で活躍している人
がたくさんいます。
東大のみなさんも、地元で生き残るような手段を考えてみるとおもしろい
のではないか。
それは環境問題を考えることとほかなりません。
答えのない問題
環境は全部つながっている。
このアメリカの教科書でも「地球は何故火星と金星の間にあるのか」など
宇宙論から始まる。
また私が環境科学の講義の最初に学生に見せるのは、パチンコの玉を箱に
入れた水分子の模型である。
物質の三態や水の特殊な物性を模型で実感してもらう。
このように(体内の)内部環境から宇宙まで、環境はつながっているといえ
る。
その中で何かの答えを出そうという時東大生向きでないと思うのは、答えが
あるかわからないということです。
私達研究者がぶつかっている問題には答えがあるかどうか分かりません。
その答えを探すために研究をする。
それが無理なら桁を定める。
意味のある数値をださねばならない。
そのようなことは、これまで答えのある問題ばかりに取り組んできた東大生
には向きません。
しかし、今からはそのような問題に取り組むことが求められます。
あと「理屈は物ができる程度にやればよい」ということがいえます。
例えば橋を造るにしても、壊れない柱を造るための議論は、色々計算をする
が一番最後に安全率を掛けて単純な数値になる。
衛生工学では、四則計算しかやったことがないです。
土木工学にいた利点は、お金の値打ちがわかることです。
兆と言えば大金、億と言えばはした金です。
下水道に使われているお金は、先端にいる私から見ると半分は無駄金に
なっています。
今の公共投資はこういうものなのです。
最後に
一番言いたかったのは、みなさんで日本の環境教科書を作ってみませんか
ということです。
もちろん一朝一夕でできるものではないでしょう。
しかし10年程度かければ日本が自慢できるようなものができるのではない
でしょうか。
そして、それをぜひアジアの発展途上国で生かしてほしい。
今アジアは日本が犯した過ちをもう一度犯そうとしています。
それを食い止めるのにその教科書が役に立つのではないかと思います。
質疑応答
1
東大生の多くは官僚を目指しますが、国家の中から環境問題に関わって
いくにあたりアドバイスがあったらください。
典型的な例がいくつかあります。
一つは、1960年代半ばに厚生省初代の公害課長になった橋本道夫さん
です。
橋本さんは現場を見に行き、既成の法律はないが被害はあるなら自分の仕事
だということで対策を行ってきた。
橋本さんの活躍は非常に鮮やかでした。
よくクビにならなかったということで、最近聞いてみたら次のようなシン
プルな答えが返ってきた。
「公務員には身分保障というものがあります。
間違ったことをしない限りクビにはなりません。」
身分保障は仕事をしない根拠に使う人が多いが、橋本さんは仕事をする根拠
にしたということです。
その後に続いたのは土木出身の加藤三郎でした。
彼がやった仕事で一番身近なのは、合併浄化槽に補助金を付けたことだろ
う。
環境庁ができてすぐの頃から頑張っていました。
加藤君は天下りはしないでNGOをつくって、今でも川崎で活動をしていま
す。
この二人を追ってこの分野に入ってきたのが、国際局長になった都市工出身
の浜中君です。
1970年に水俣病の和解プロセスをしようとした時、加害者と被害者が
対等にはなりえないということで、私達は厚生省に座り込みをしたのだが、
彼は厚生省を批判するビラをまきました。
そのような立派な人たちもいますので、官僚になることは止めはしませ
ん。
どういう立場にいてもやることはあります。
彼らの場合には、自分がよって立つ技術を持っていました。
都市工では優秀な人は、住民に一番近い地方自治体に行きます。
地方に行けば、その地域での問題に直接、しかも総合的に取り組むことに
なります。
例えば名護市の市長は、非常に難しい判断を迫られていて注目に値します。
次のクラスが国家官僚になり、続いてメーカーにゆくという順序になりま
した。
経済学者は、時に非常に悪い理論を打ち出す。
アメリカの経済学者のサマーズは、「環境の値打ちの安い、人の命の安い
途上国に公害を輸出することは経済学的に正しい」といった。
すべてを市場経済に基づいて計算する。
「被害者が加害者にお金を払うことで、公害対策をしてもらう、というこ
とは計量経済学上等価である」という議論もあった。
倫理的には相当悪いことなのだが。
ただしそんな中にも、宇沢先生やアマルティア・センのような人もいる。
水俣病の患者から見れば、東大工学部に私がいたことが信じられないこと
だった。
患者にとっては、東大卒業生が水俣工場を作って水銀を使ったアセトアルデ
ヒドを作り、今度は東大医学部が水俣病を発見し、そして東大医学部がもみ
消し、患者の一人として立ち上がった川本輝夫がぶつかったのがチッソの
東大卒の職員であり、そこで怪我をさせたといって傷害罪で起訴したのが
東大卒の検事であり、裁判官も東大出。
川本さんに頼んで自主講座に出てもらい、彼にどうだったかと感想を訪ねた
ところ、
「おれはこういう風に東大と関わりがあって起訴されて公訴棄却になった
が、何重にもこの大学の卒業生と関わってきた。
東大の門をくぐるときは本当に勇気が要った。」
これは僕らのせいではないけれども、ここへ入ってしまった以上、逃げられ
ない一つの烙印みたいなものです。
本人としては嫌ですが、自分がどのような位置にいるのか知ることは絶対に
必要な作業です。
2
自分の位置を知れと言うのは、東大の中での自分の位置を知れという
ことですか、それとも社会の中での東大の位置を知れというですか。
両方でしょうね。
私が公害に取り組んだのは、実はあまりいい動機ではありませんでした。
日本ゼオン時代、私は工場で水銀を流していました。
水俣病の報道を聞き、「自分が流した水銀でそんなえらいことが起こったら
大変だ」と思って調べ始めた。
ただ現地に入ったらそんな動機は飛んでいってしまい、科学をやって原因を
解明する立場としてなんとかせねばと思って動いてきた。
質問はごもっともですが、東大にいるなかでプラス・マイナスどちらも
たくさんあります。
その中で私が意識してやってきたことは、自分の生活経験をできるだけ
プラスに評価することです。
中学から高校開拓農民の暮らしをしたことから、肥料を安くと思って化学
を志望した。
大学に入って経済学を学んで肥料が安くならないことがわかり、農業用ビニ
ールを安くしようと思い日本ゼオンに技術を盗みに入った。
三年後に盗む技術は無くなり、大学に戻ってきて水俣病に取り組んだ。
よく言われるのが「あなた遠回りしていますね。」ということだ。
それは確かに土木工学科ではあまり昇進しないケースだが、助手の立場は
教授会に出なくてよいなど自由も多く、思えばいい条件にあったといえる。
水俣病の浜本二徳さんは、「水俣病にかかりえらい災難だったけれども、
世界中を歩いたし友達もでき、なんかお釣りを余計にもらって人生を得した
気がする。」と言っておられた。
私も同感である。
今考えるともう少しできたと思ったのは、東大都市工学科にいた時に学生
に対する影響をもっと考えるべきたったことだ。
中西準子はそれを相当意識的に行い、成功した。
年金生活を経験すると、助手と教授では格段の差であるが、これだけ自由
にやったのだから年金が少ないくらいしょうがないかなと思っている。
http://www.sanshiro.ne.jp/activity/01/k01/schedule/6_15b.htm
宇井先生 事後質問会
3
客観的な事実というものが本当に存在するのだろうか。
その気持ちはわかるし、不確定性原理というものもある。
不確定性原理は物理の世界におけるミクロなものだと思っていたが、社会
科学にもやはりあるということで悩んだことがある。
水俣病のケースでいうと、清浦雷作教授は工場排水と水俣病の因果関係を
知っていてわざと隠したのですね。
それを洗い出してみると、清浦教授は客観的事実として(水俣工場と同様
の工場のある)他の地域を挙げて、「こういうところを測ったら水銀が
多かった。」とした。
しかしその地名は隠した。
これは確かに作為的にやったことだけれど、その地名を最初から知っていれ
ば苦労しなかった。
やはり客観的な部分はあると感じます。
そのような部分は明らかにしていく必要があるのではないか。
アメリカの教科書は、当たり前のことまで丁寧にかいてある。
僕がミシガン州立大学という真ん中くらいのレベルの代表的な大学に一年間
いた時に、自分の子供を高校と中学に通わせてわかったのだが、中学・高校
は進度が日本より一年から二年遅い。
そして大学に入ると、図書館と教室とをくるくる歩いているだけで週が暮れ
てしまう。
そうして勉強するうちに、東大と同じくらいのレベルになる。
アメリカの大学でいうと、だいたい真ん中くらいが東大の場所になる。
東大は日本では一番水準が高いけれど、そこに入ったからといってすぐに
一流にはなれない。
ただ、教養学部という強みはある。
アメリカの大学はそのあたりでは苦労していて、教養を広めようとしてい
る。
多くの学生は、大学に入って場合によってはかなり高度な内容の専門書を
読むことになる。
そのため、教科書は高校生でも読めるくらいにやさしいところからきちんと
書いてあるのだ。
日本では高校までの教育を前提とすると、大学での教育が成り立たないと
いうケースもある。
医学部なのに生物をやっていない、とか工学部でも補習をしないとついて
いけないなど。
教科書を作る時にも、それを気にして作らなくては認められない。
客観的事実としてどこまで皆で認めるかということですが。
例えば「ににんが四」みたいなものが環境科学にあるとする。
ここから先は自分が方針をもって行動するところです、という感じに。
そういう定石集みたいなものができないかと思ってます。
4
水俣病の場合は作為的に隠したという話がありましたが、
何も隠さなくても真剣に対立することは起こりうると思います。
これについてはどのように考えますか?
イタイイタイ病において、カドミウムであるかどうかという論争があっ
た。
病気の原因を調べようとして、最初はリウマチに詳しい先生が知っている
のではないかと言うことで聞いてみたが、うまくいかなかった。
そこに吉岡さんという農学者がきて「あ、これは鉱山だ」と言うことをいっ
た。
この人は鉱物についての詳しい知識を持っている人だった。
言われてみればカドミウムは、私達にとっては毎日触るようなありふれた
物質だった。
イタイイタイ病も水俣病に関しても一番つらい時期を乗り越えたお金は、
アメリカからもらっている。
日本の科学政策を思うと大変恥ずかしい話である。
私と原田正純さんは、水俣病の研究費を国からはもらっていない。
もちろん、申請しない私も悪いですが。
しかし水俣病の患者をみると、研究費はどうしてももらえなかったので
申請ができなかった。
それが、日本の科学政策なのです。
これから環境科学というのは、東大の教養の中で半分ぐらいを占める位置
になるのではないかということを思っている。
科学の総合化により文系の人にはますますわかりにくくなっているが、
環境の面から整理するとかなりわかりやすくなるのではないかと思う。
環境というキーワードで統合するのも可能だろう。
「蝶はなぜきれいなのか」ということを問題意識に持って、生物科に入っ
てきた人がいた。
しかしその人は東大教授から「蝶がなぜきれいかなんて調べる必要は無い」
といわれて東大には入れなかった。
しかし、自然が何故きれいなのかと言うことは建築などをやる人間も哲学
をする人間も考えないといけない問題だし、環境問題での景観の問題にも
つながる根本的な問いなのではないか。
沖縄の畜産排水処理を見に来た、平仲君というウェルター級の世界チャン
ピォンがいる。
彼に「世界チャンピォンというのは、どれくらい見込みがあれば挑戦するの
か」と聞くと、「2割か3割です。」という答えが返ってきた。
僕らは5割以上の成功の見込みがないと実験を始めない。
普通だと7,8割だ。
やれば必ず当たることばかりやる。
2割、3割ぐらいの成功率で実験をするのは度胸がいる。
もしやって失敗したら、傷つき満身創痍になってしまうでしょう。
しかし失敗して体験したことの積み重ねとして、私の60年間の実験の実力
はできてきた。
結論としては私達日本の科学者は度胸が無いということです。
平仲君みたいなボクシングで世界トップをとるような人には、すごい度胸
がある。
公害の世界を考える時に、皆さんがこれからどういう企画を立てるかです
が、関西グループの頂点としての宮本憲一さん、関東グループでは都立大の
飯島伸子さんの話はぜひ聞くといいと思います。
彼女は日本で一番詳しい公害の歴史の年表を作りました。
80年代になって、自民党の中で「環境庁なんてうるさいのはつぶせ」
という声がでてきたことがありました。
それを、
「地球環境問題というものがあります。これはゴビ砂漠を緑化するなど
巨大な事業になります」と、誰かが竹下登と橋本龍太郎に知恵をつけた。
そして、環境庁は生き残り、橋本龍太郎がこれを省に格上げしたのです。
彼らのイメージは、ゴビ砂漠の緑化などの巨大工事です。
日本の公害問題は全く別の問題だとすることにより環境庁は生き延びた。
皆さんが受けてきた教育について僕は調べたことがあります。
中学高校の教科書に環境問題がどう書かれているかです。
政府や自治体はちゃんとやっていると書いている教科書には、四大公害訴訟
の例えば水俣病はチッソが起こしたこと、社名が書いてある。
また他の教科書には会社の名前は伏せてあった。
おそらく編集者との間に「こっちは譲歩して削るからこっちは書かせてく
れ」という綱引きがあったのだろう。
また、1975年には日本の公害対策の設備投資は1千億にもなるとあっ
た。
確かにその年は突出して高かった。
しかしその前後では半分以下くらいだった。
高いところだけを挙げて、「日本はこのくらい金をかけている」というの
を強調している。
これは嘘ではない。しかし本当でもない。
皆さんが受けてきた教育と言うものはそういうものです。
嘘ではないが本当ではない。
そのようなことは教科書を並べてみてわかったことなのですが。
こういう経験から日本での地球環境の議論は、私は半分くらいしか
信用しないことにしています。
5
地球温暖化の問題について現場に出ると言うことはどういうことなの
でしょうか。
あと、公害問題と地球環境問題の関係を教えていただければ。
また、「国へ帰れ」とおっしゃっていましたが、都会出身の人ついては
どうすればよいか。
一番最後の質問については、奥さんの里でもいいのではないか。
故郷でなくても、こじつけでいいのだ。
人格形成に大きな影響を受けた場所、気に入った場所でもいいだろう。
大都会を相手にするには大きすぎて歯が立たない。
今いる沖縄大学は吹けば飛ぶような大学だが、やったことの影響がわかり
やすい。
現場についても、自分で勝手に決めていいのではないか。
理屈はどうつけてもよいから、大事なのは自分が本当に現場だと思えるか
どうかということ。
今はそのようなものが無さすぎるのではないか。
10年くらい前に東大の都市工に行った時の話だが、オゾンのシミュレー
ションの研究をしている人がオゾンの匂いすら知らないという事態はおか
しいと思う。
それでも研究の結果は出るかも知れないが。
地球温暖化だとしたらメタンや亜酸化チッソなどのガスもある。
例えばガスが牛のゲップから出るならば、牛と少しつきあってみたらどうだ
ろう。
このような現実とのつきあいなしに何%という議論を東大生はやってきた。
せめて罪滅ぼしに、自分が現場だと思うことをこしらえてそこで鈍くさい
ことにつきあってみてはどうかと思う。
現場で一番苦労したのは環境アセスメントだ。
等方性拡散を使うと、1kmか2km先でも拡散して影響はないという計算
結果が出る。
しかし実際には、田子の浦では20km先までパルプ工場の影響が出てい
る。
なぜだと考えてわかったのは、時間的な平均と空間的な平均をとって拡散
計算をすると、必ずそうなるということだ。
潮や風がある場合には、排水があっちに行ったりこっちに行ったりして
全然予想がつかないのに、それを平均で出した結果に重ね合わせる理論が
使われている。
東大の教授の一人がこの理論に対して答えられなくて辞めるなど、様々な
因縁がある等方性拡散だが、いまだにすべてのアセスメントで使われて
いる。
これについての議論は済んでいるのに、行政は取り入れていない。
等方性拡散にこだわっている。
規制のパラメータに何を選ぶか、それは非常に政治的な判断である。
60年代後半、何も規制する法律がなくて企業は流し放題であった。
それに対して「規制する法律がないから何も聞く必要がない」という企業
に対して、行政は「下流の住民から苦情がでますので」と企業にもみ手を
してなんとかお願いした。
そうして出てきた規制だから、住民にとって不利で企業にとって有利な
BODのようなパラメータが選ばれたのだ。
そのようなことは法律を読めば一応はわかるが、「なぜそうなったか」に
ついては知っている人間がいなくなれば迷宮入りとなってしまう。
そのため、私は公害原論にそれらのことを書いたものだ。
地球温暖化係数(フロンなどのCO2に比べて)については、100年間、
500年間、1000年間のとりかたで結果は違う。
パラメータのとりかたが多分に政治的な問題だと思いました。
シミュレーションをやっている人は環境問題に関心があるというより
研究費が出るからやっている。
自分の問題意識を持っている教員は、どれくらいいるのかと思う。
6
沖縄という小さくて影響が現れやすいところで、
市民の役割・影響はどのようなものですか?
沖縄では、市民セクターの役割は大きくなってきている。
そこに住んでいる人が声をあげなければどうにもならないと気づき始めた。
給料は不十分でもちゃんとした目標を持ったNGOで働きたいという人は
今後増えるだろう。
われわれの世代は革命理論・権力理論でふりまわされたが、これからは
そうではなくなるだろう。
かつては公害問題など権力を掌握すれば解決するとしたが、東ヨーロッパ
の惨状はどうだ。
大気汚染で10m先さえ見えない。
我々はそもそも権力を持たないのだ。
権力を持たない人間が権力を持つ人間にものを言うには、相手よりも一桁、
二桁上の倫理性を持たなければならないだろう。
ただ、東大生の落とし穴は権力を持とうと思えば持てるという幻想がある
ことだ。
7
専門馬鹿に陥らないために、
今自分がどこにいるのか知るには教養が大切だ。
教養学部のある東大を卒業した人が専門馬鹿にはなっていないか。
相対的には東大は専門馬鹿ではないと思う。
教養学部が残ったからだ。
教養と専門が綱を引き合えば大学内では専門が勝つに決まっている。
そういう力関係なのだ。
大学教育の大綱化において一般教養は意味がないから、社会にとっては
教養課程は意味がないとされていた。
しかし、今考えてみるとそれはばかばかしいことだ。
これは、当時ちょっと落ち着いて考えればわかったはずだ。
今考えてみれば、ということが多すぎる。
諸君は冷静に、教養を持って、落ち着いて歴史をにらんで考えてほしい。
それがまさに教養の中心ではないかと思う。
教養としては、アジアの歴史がだいたいわかっていればいい。
それすら高校で教えようとしないのが、今の学校教育である。
日本は鎖国していたために、17−19世紀のアジアについてはほとんど
知らない。
アジアの人たちはそれは敏感です。
学会で、「おまえ日本からきただろ」と目つきが厳しくなる人がいる。
そこで「沖縄に住んでいる」というと、ふっと空気が和らぐ。
彼らは、琉球王国という別の国があったことや、第二次大戦で沖縄が大変
な目にあったことを知っていて、いわば親近感を持てるからだ。
その意味で、沖縄でなければできない研究がある。
アジアの人と一緒に力を合わせて何かをやる時に、相手が敵意を持たない
ことが条件になる。
その一つの例が遺伝子バンクだ。
遺伝子バンクは巨大な冷蔵庫だから数百億の投資となり、ある程度の雇用を
創出できる。
同じ投資でダムを造るよりはずっと雇用を創り出せる。
沖縄では計画的に政策をおこなう習慣がない。
補助金の大きいものからやっていく習慣がある。
しかし、それでは持続的に食べていけないと最近気づき始めている。
典型的なのが、沖縄市が計画している泡瀬という干潟だ。
そこを埋め立てる計画だが、埋め立てた場所に何をつくるかは埋め立てて
から考えるという。
新石垣空港のことも、同じようなことになっている。
僕ら「沖縄環境ネットワーク」という小さなNGOが、東工大の原科教授
をまじえて環境アセスメントの勉強会をした。
複数の提案を、工事しないという代案を含めて検討するべきだとした。
「法律も変わったことだし一緒に勉強しませんか。」と県庁に出したとこ
ろ、「新石垣空港については今後も住民の意見を聴くことを考えているの
で、勉強会に行く必要はない。」という返事がきた。
役人は誰も来なかった。
勉強をした結果をふまえて県に公文を送ったところ、委員会がもめてしまっ
た。
時間ばかり食ってしまい、計画はあっちこっち迷走して進まない。
あなたたちの世代は、僕たちに対して「あなたたちのせいでこんな時代に
なっているんだ」といえる世代。
年寄りも考えてくれといえる世代。
若い世代はどんどん発言すべき。
そこで、いまの学力が落ちた高校生でもわかる環境科学の教科書をつくる
ことをすすめる。
みんながマイナスだと考えるところで、プラスだと思う。
できるかできないかは、自分がどう考えるかだ。
僕が水俣病にとりつかれたのだって、加害者という認識と、この問題を
見逃していいのかという気持ちからである。
第二水俣病・新潟水俣病が出てしまったのは、負けだと感じだ。
しかも裁判をして気づいたのだけど、昭和電工は佐藤栄作と縁組している。
皇太子妃一家とも縁組している。
日本エリート階級そのものであった。
えらいものにぶつかったと思った。
判決では勝ったが、「どうみたってこれは対等ではない」という論をぶつけ
た。
水俣病にもチッソと皇太子家との結びつきがあった。
水俣病というのは、どれくらい日本の、(乱暴ではあるが)支配階級に
むすびついているのか。
水俣病にも良かった点はある。
患者や市民の運動である。
それは、市民の生活に余裕ができたからでもある。
集団で被害を受けてそれを救済しようとする運動としては、原爆も森永ヒ素
もだめだった。
水俣病も一度目はだめだった。
二回目になり、初めて市民運動ができた。
それは成果として考えて良いだろう。
日本は国際的に見ると、なんたる野蛮国だと思われる。
ウォルフレンが書いたことだが、日本は表向きは民主主義だが中はめちゃ
くちゃだというのは当たっている。
しかし、「おれが生きている程度には日本は民主化された。戦前の日本だっ
たらとっくに殺されていた。」と思う。
ところが、戦前の日本を目標にした国がある。
北朝鮮です。
北朝鮮の幹部は堂々とそう言っている。
戦前の日本は、世界に孤立してやけくそで戦争をはじめてしまった。
アジアはそういう情勢の中にあるということも、教養の一つとして身に
つけておいて欲しい。
8
科学的にみれば客観的な事実は存在するかもしれないが、
社会的にみればどうなのか。
原田先生がおっしゃっていたのだけれども、水俣には階層があってという
事実も踏まえなければならないのではないか?
それはそのとおりである。
社会科学の対象である。
水俣病の研究は、政治学の人が誰もやらずに、なんで工学部の助手がやった
のだという石田雄先生の反省を込めた意見もあった。
公害と地球環境のつながりに関しては、局地的な公害が重なりあって地球
全体に影響が出てきたという飯島さんの話に賛成だ。
石弘之さんと那覇の空港ですれ違った時、「宇井さん、なんでこんな所に
ぐずぐずしているんですか。このごろ黙っているようですね。」
「黙っているわけじゃない。こちらは地元の問題が山ほどあるんだ。」と
いった時も、「公害って言うのはやはり地球環境に広がったじゃないです
か。それをどうしてもっと強調しないんですか。」といわれたことがある。
この3人の意見が合えば、だいたい信用できるのではないか。
そこから先は社会科学の問題だ。
日本の場合には、公害と地球環境は違いますということを強調すること
によって環境庁は生き延びたし、それを教えられてきた諸君が信じてしまう
のも無理はない。
が、その考えは一度払って欲しい。
沖縄では、高校まで世の中はおまえの力で変わるものではないということ
を叩き込まれる。
おかしいと思ってもどうせ変わらないから。
大学にはいって、初めて社会科学を勉強して世の中は変わることもあると
いっても、地方の大学ではなかなか受け入れられない。
9
教科書をつくる意義とは?
作るほうのためなのか、読む人のためなのか?
また他のためなのか?
両方のため。作ることによってみなさんが勉強になることは多いだろう。
ただ、いろいろな環境科学の本はあるがテクニカルなものばかりで、それら
の関係や全体の中でどこにいるのかはわからない。
それを整理したら良いのではと思う。
10
個人の心持ちの面で、先生のような偉大な人ばかりではない。
何かをやりたいけど、寂しかったり、一人ぼっちになりたくなかったり
してできない人は多いと思うのだが、先生のように一歩を踏み出せる人
を増やすためにはどうすればいいのか?
そんなえらいものではないんです。
水俣に出会わなければ生きていたかどうかわからない。
水俣に出会うことで生かしてもらった。
水俣病を何とかしようと思ってきたが、恩返しはしきれていない。
今でも水俣関連で「もちょっとやってよ。」とつつかれる。
沖縄にいると、目先のことが多すぎてそれらに追われてしまう。
水俣病については借りが多くて、申し訳ない気持ちが先にたってしまう。
それでも40年もやっていれば、水俣病についてはだいぶ詳しくなる。
この秋、環境省主催の水銀の国際会議が水俣で開かれる。
今は世界中、劇症ではなくて弱い症状についての研究が中心である。
井形昭弘(東大卒:水俣病をひどくしたほうの人)が水俣病について発表
する。
僕は、なんとかポスターセッションをして抵抗してやろうと考えている。
そんなものだ。
外から見て上手くいっているようでも、そうそう上手くはいっていない。
11
環境教育の上で、いろいろな専門分野の相互作用を理解・整理する
ための手法や指針はどういうものなのか?
それは、川本輝夫さんがいったことです。
彼は若い学生に、「そういう自分の視点が持てないなら学校なんか辞めて
しまえ。」といった。
彼は、自分の視点を持ってもらいたいといいたかったのだ。
彼は、自分は漁師なので教育も受けていないし座り込みを続けるので精一杯
だ。
おれに変わって考えてくれる人が欲しい。といったのだ。
僕は、わからないから現場へいって考えた。
弁護士と議論をするから、最低限の勉強をした。
わたしの場合は現場で全部学んだ。
民事訴訟法など。
新潟水俣病弁護団は最強の弁護団だったと思う。
激しい議論をしていく中で身につけたため、ウェイトをどこにおくかは
考えなかった。
どのように勉強するかの組み合わせを考えていたらずいぶん悩んだだろう
が、初めから組み合わせは一つしかなかった。
現場で考える。
または患者の立場で考えるという基準だ。
みなさんには、自分の立場を全面的に投入できるような場面が見つからな
いという苦労はあるだろう。
それは想像力の問題だと思う。
自分の子供の立場だったら、どうしたらいいか。
創造力と想像力が衰えているのは事実かもしれない。
高校までは教科書がすべて正しいという教育を受けてきたから、大学に入っ
てくると社会科学的な思考ができない。
例えば、もし氷が水に沈んだらどうなりますか?
その中で生命が進化するのは無理でしょう。
「もし○○だったら」で少しずつ置き換えて想像することが、環境科学では
不可欠。
これをやれば、孫の代に一人か二人救われるものかもしれない。
公害問題というのは日本が世界で一番早かったのだから、手本が無い。
どんなに非力でも自分で考えなければならないのです。
世界中が日本に向かってもう物をつくらないでくれと言っている。
あなたたちの経験を生かしてくださいといっているのに、日本は何もして
いない。
われわれ日本人は一所懸命働いて、税金払って、その金をODAでばらまい
て恨まれる、そういう構造である。
いまこそ必要なのは、教養であろう。
それは大部分環境科学につながっているだろう。
いま高校の現場に行けば、総合的なものの中で環境をやらなければならない
としているが、ゴミの分別やどぶさらいぐらいしかやることがない状況で
ある。
日本の教育は本当に難しくなっている。
ぼくらは依然として、ものをつくることしかできない。
幸いわたしの仕事は尻拭い、下水処理ですから。
最低100日データを取らなければならないから、誰もやらない。
おかげで最先端の研究ができる。
−−−−−−−−−−−−−−
『宇井純の汚水処理』(抜粋)
・・沖縄までの35年・・
http://www.okinawa-u.ac.jp/~ui/osuisyori/osuisyori.htm
1.活性汚泥法による処理場が出来るまで
活性汚泥法とは、水中に浮遊している細菌を主とする微生物の集団が、汚水中
の有機物を取り込んで同化する働きを利用して、汚水を処理ものであります。
私が、水俣病に関わってから工場排水問題の重要さに気づき、水処理の研究
を始めてから長い年が過ぎました。その間、研究費に恵まれないなか、
多くの人々の好意に支えられて、実際に処理場を設計し出てきた運転データ
から次ぎに進むという方法で研究してきました。新たに処理施設を建設する
よりも、古くなった処理施設を手直しして能力を倍増させるという、柔軟な
技術にたどりつきました。
何でも作れば金になり、金をかければうまくいくという時代はとうに終わり
ました。
これからは、今あるものをいかにうまく使いこなし、低コストで自然の力を
いかに利用していくかが大切な時代です。
これは30年もの長い年唱えてきていますが、今になってやっと目を向けざる
をえないような社会状況になってきています。
他人の真似をするよりも、私でなくては出来ない技術が見つかって、長年
研究してきた成果が実ってきたように思います。
そこでこの技術を公開し他の分野で応用できるようにしようと考えました。
皆さんも一つ大いに工夫してみて下さい。
2.−オランダの酸化溝の経験−
私が1969年にオランダのデルフトに留学したとき、衛生工学研究所で
見せられた酸化溝は、フィールドトラックのような溝を水車でかき回してい
るだけの簡単なものでした。
それまで立派な汚水処理場を見慣れた眼には、これで果たして水がきれいに
なるのか、本気に出来ないものでした。
しかし、酸化溝の発明者“パスフィーア博士”のもとで3ヶ月ほどゆっくり
とデータを取ってみますと、下水中の有機物の汚水ばかりでなく、アンモニ
ア性窒素も時間と共にだんだん取れることがわかりました。
見かけによらず簡単な設備が複雑な働きをしていたのです。
このときにもう一つ気がついたのは、水を浄化処理するときに必ず発生する
汚泥の量がこれまでの処理場に比べてかなり少なく、半分以下らしいことで
した。
下水処理の作業の中で、一番手間のかかる泥の始末が、量的にも質的にも楽
に処理が出来れば下水処理場の運転はずっと楽になり、金額的にいっても
あまりかかりません。
このことの重大さが身にしみるのにはもう少し時間がかかりました。
思ったより簡単な構造で安価にできるため、かえって日本では酸化溝の
普及が遅れたことを、日本に帰ってから知りました。
工事が安くできたのでは、メーカーは儲からないのです。
何社かこの技術を一緒に開発しようと相談してみましが、皆に断られて、
もう自分でやるしかないと私は考えました。
このオランダで学んだ技術を最初に応用したのは、大分県臼井市の
フンドーキン味噌工場の排水処理です。
1973年に完成しました。そのほかに高知県の光の村、栃木県の滝沢ハム
泉川工場の排水処理でも取り入れています。
3.−最初の応用−“フンドーキン味噌”
オランダで学んだ技術を最初に応用したのは、大分県臼杵市のフンドーキン
味噌の工場排水処理でした。
そのころ臼杵市は、大阪セメントの工場を誘致すべきか否かで真二つに割れて
いました。
フンドーキン味噌工場の小手川道郎副社長(現取締役副会長)は、セメント
工場の公害を心配して誘致に反対でした。
しかし、自工場では排水を流しているのが気にかかっていましたが、処理
するには設備費が負担できない金額で困っていました。
その時、公害反対運動の相談で臼杵市を訪れた私がオランダの酸化溝の話を
すると、小手川氏は早急、酸化溝の建設費を計算をしてみると、業者の
見積もりした金額の4分の1で出来そうです。
そこで即決で処理場の自作を決め、1973年に私の設計した最初の処理場が
出来上がりました。
最初の処理場が、公害反対運動の中で作られたことは幸運でした。
私の理論が運動の中で役立つことが立証されて、大いに自信を得ました。
小手川氏は私の設計よりも一回り大きな処理場を作りましたので、設計より
数倍の排水が入ってきても大丈夫になり処理場の運転は成功でした。
食品工場の排水は、季節や工場の操業時間で大きく変動することがわかり
ましたが、この処理場は非常に柔軟な特性を持っていて、たいがいの変動
を飲み込んで安定した処理水を作り出しました。
そして予想した通り、有機物の汚れだけでなく窒素も除去されて、安価な
上に性能がよかったのです。
その後作られたフンドーキン醤油の排水施設は、写真で判るように自然
の地形を生かして作られたものが動いています。
谷間をせき止めて、大きな処理池を2カ所作り、大きい池が2500トン、
小さい池が1500トンまでの排水処理が可能になっています。
一番上にはかんがい用の池があり、自由に地域住民が使えるようになって
います。
この処理水は、川まで1.8キロもの地下パイプを通して放流しています。
夏場の水不足の時には付近の田んぼに還元されています。
醤油の絞りかすを圧縮機にかけ、水分を取り除き周囲の農家に配るといった
ことから解るように、環境に優しい工場運営をしています。
4.−日本一安い処理場−“光の村”
高知県土佐市の町外れの小さな谷のどんづまりに、子供たちみんなで何年
もかかって作り上げた知的障害者の総合施設「光の村」があります。
動物を飼育し、パンを作り、段ボール印刷機械を作ってアメリカに輸出
したという、何でも自分たちで作ってしまう所です。
しかし、ここに落ち着くまでは、土地探しにはずいぶん苦労したようです。
光の村が大きくなり、工場を持つようになると、炊事、風呂、洗濯などに
使用した雑排水が下流の用水に流れ込んで、周辺の水田で泡立ち等の問題
を起こし、その問題を解決しなければ、せっかく落ち着いた土地からまた
立ち退かなければならないという苦境に直面していました。
そこへ高知パルプ生コン事件の裁判で訪れた私が紹介され、相談を受け
ました。
ここの子供達は障害の程度に応じて、いろいろな仕事をして稼いでいます。
その中には、コンクリートブロック工もいますから、私の設計の小さな池
を作り、そこへウナギ養殖用の水車を2台浮かべて攪拌し、1日1回水車
を止めて泥を沈め、上澄みを流し出すという最も簡単な形の排水処理場を
作ることになりました。
子供たちは先生方と一緒に穴を掘り、コンクリートを打ち、大部分を自作
してしまいました。
電気の配線など若干は本職に頼まなければならないところにかかった費用
70万円が、100人分の雑廃水処理場の全建設費でした。
これはおそらく日本一安い処理場でしょう。
現在の「光の村」は、約150人の入居者が生活する大きな総合施設に
なりました。
そこで職員を含めて200人分の生活排水や、パンやお菓子の食品工場等
の排水を処理するために、一回り大きな2代目の浄化槽を自作して稼動
させています。
処理場は縦12m× 横16mくらいの大きさになり、水車も3台目が
取り付けられて、光の村の生活雑排水をすべてこれで処理しています。
「ここで出した排水はここで処理し環境を汚さないために頑張っている」
という光の村の 西谷園長の話はとても心強い言葉でした。
5.−念入りな処理の手順−“滝沢ハム”
栃木県の水は、全国でも有数のきれいな水のあるところです。
その中でも泉川という場所は地名からわかるように、そのあたりは清水の
湧くところです。
1973年に滝沢ハムが栃木市内の工場を泉川に移転した時、それまで
たれ流しだった排水を思い切って金をかけ処理することにしました。
食肉加工の排水は,普通の都市下水の4〜5倍も濃いもので、それだけ
時間と手間をかけて処理しなければきれいになりません。
そこでプラスチックの膜の上を流し、そこに付着した微生物で、まず
第一段階の浄化を散水浄床で行い、次に空気を吹き込んで活性汚泥法で
処理し、泥を分離する沈殿槽も二重に通すという、普通の排水処理の
倍以上も手間をかけた処理場を作りました。
水は確かにきれいになりましたが、そこから出た泥を始末するのに、
2人くらいかかり切りの作業になります。
年末の忙しい時期は生産量が多く排水も増え、処理場がパンク気味で
運転が難しくなりました。
年が経つにつれ工場の生産量は増えましたが、逆に処理場が古くなって
能力は低下します。
毎年処理場がパンクする日数が増えて、とうとう処理場の増設をしなければ
ならないところにきました。
しかし、建設してからまだ7〜8年の処理場を捨てるのはもったいない
話です。
私の提案は、その処理場をそのまま使い、その後ろへ池を作って,
光の村のように時々攪拌を止めて上澄みを出そうというものでした。
工場内には魚を飼っていた池があり、その用地を利用して既存の処理場
からの水を3,4日ためる池をつくり、水を攪拌して空気を吹き込みます。
水中の微生物が酸素で呼吸しながら水を浄化しますから、時々攪拌を
止めると処理されたきれいな上澄みが出ます。
これを流し出してまた攪拌を繰り返す。
これをタイマーで自動化します。
また池の水と泥の混ざったまま一部を前段に戻します。
そうすると処理場の悪臭が消えます。
本当は土だけの池でよいのですが、ここは浅い砂利層の地盤で水が抜けて
しまうのでコンクリートを張りました。
土壌浄化法の新見博士が考案した砂で水をこすトレンチも組み合わせて、
処理水の濁りをさらにとる工夫を加えました。
現在では、これが一工場の処理施設かと思えるほど、大きな処理施設
になっています。
処理水は最終的に放流しますが、処理前の茶色の水がきれいで透明に
なるのに驚きます。
6.沖縄での挑戦
沖縄に来て私がまず直面した水の問題は、どこから手をつけてよいか
と戸惑うほどたくさんありました。
北部山地の赤い水と南部の黒い水、小さな島の中での貴重な水の浪費、
一方では南部の水は全く使われず汚したままで海に捨ててしまい、
その結果生じる海洋汚染と サンゴ礁の死滅、荒廃、その中にある未知
の汚染源としての軍事基地、そういう現実に正面から取り組もうとしない
行政の姿勢、行政にすり寄る大学教授の存在、日本のどこでも見慣れた
光景でしたが、ここでは特にそれが激しく自然の破壊と強くつながって
いるように思われます。
特に畜産排水の無処理放流は、
BOD10,000mg/lをこえる高い有機物と、
窒素1,000mg/lを超える高い栄養塩濃度で、
河川を真黒にしてしまうだけでなく、沿岸を富栄養化させてオニヒトデの
異常繁殖などによってサンゴ礁の荒廃をもたらす原因になっています。
(1) 沖縄大学の排水処理
沖縄に来て、始めの頃に取り組んだことは、沖縄大学が89年11月に、
新校舎2号館を建設したとき、そこのトイレから出てくる排水を、
私が設計した回分処理槽で処理し、その処理水と屋上に貯えた雨水を
中水道として循環再利用することでした。
(2) 沖縄県畜産試験場との共同研究
沖縄に来て14年間、前進したり後退したりしながら、どうやら
南部の川の黒い汚水の 原因になっている畜舎排水、とりわけ豚の屎尿
の処理に酸化溝を応用する研究について、1998年に沖縄県農林部長
と相談し、今帰仁村にある県畜産試験場で畜舎排水を処理するパイロット
プラントを建設するよう提案したところ、幸い試験場研究員の協力が
得られました。
繁殖豚を含めた100頭ほどの規模の豚舎で排出される屎尿を含んだ排水を
機械篩いで固液分離をしたあと、無希釈で酸化溝へパイプで入れ、
約70日の滞留時間をかけて回分処理するというものです。
浄化槽本体は畜産試験場研究員らが仕事の合間に作業員達と作り上げました。
99年1月から完成した酸化溝に排水を入れ運転を開始しました。
99年4月にはほぼ 順調に運転されていることを水質等から確かめて、
その結果を一般に公開したところ多数の見学者があり、何人かの畜産農家が
その簡単な構造と低い建設コストに強い関心を示しました。
7.沖縄環境ネットワークの取り組み
―大里村の農家での研究―
沖縄環境ネットワークでは、1998年に雄樋川蘇生事業に対して
地元の沖縄銀行から「おきぎんふるさと振興基金」を受け、県南部を
流れている畜産排水で高度に汚染された雄樋川を浄化する計画を進
めました。
沖縄県畜産試験場のデータが公開された99年には、雄樋川の浄化
研究計画に対して、環境事業団・地球環境基金からも研究助成が出ま
した。
そこで大里村の環境保健部長に相談したところ、雄樋川の上流にあたる
大里村字大城の畜産農家を紹介されました。
そこで話を伺ったところ、前から環境には気を使って経営をしているが、
何かもっと良い方法があれば試したいということでありました。
そこで畜産試験場の結果を見てもらうと、これなら自力で作れるのでは
ないかと頼もしい返事をいただきました。
そこで農家に浄化槽の建設を依頼することになり、金城氏の畜舎から
排出される豚100頭の排水を処理する回分式活性汚泥法による酸化溝
の浄化槽を設計しました。
建設工事は金城氏自ら家族総出であたることになり、その建築材料費として
地球環境基金の研究助成金の中から約140万円を支給しました。
浄化槽の工事は1999年7月15日に着工し、8月10日に完成
しました。
電気工事が延びて曝気用水車を設置したのは9月20日になりましたが、
その日から本格的な排水処理浄化の運転を開始し今日に至っています。
金城氏はこの処理水や汚泥を野菜畑に肥料としても利用しており、
前より10日は早く収穫でき、良好な成果を得ているそうです。
特に悪臭がないので住宅に近い畑でも使えると喜んでいます。
豚が1日に出す排泄量は約5.4kgで、人間の出す量1.3kgを
基準にすると、約4人分、牛は約50kgで約38人分もの量になります。
(参考資料「畜産環境保全論p26,p31」)
その排泄量を考えると処理するのは簡単に行かないというのは想像
できます。
その排泄物に加えて悪臭の発生も悩みの種になっていて、悪臭に関する
苦情も多いのが現状です。
この農場では、繁殖豚を約40頭、生後3ヶ月までの子豚を150頭
から200頭を飼育しています。
この農場の敷地に設置した開放式の浄化槽で、浄化槽に豚の屎尿をため
水車で撹拌し(曝気)活性汚泥で排水を処理するので見た目は悪いの
ですが、汚れだけではなく悪臭もとれます。
この効果はびっくりするほどです。
設備は縦6m、横15m 高さ1,5mの大きさで、1,3mの深さまで
排水を入れると約117m3の容量があり、肥育豚にして200頭までに
対応できる設計にしてあります。
原水の流入は一定ではなく、畜舎の掃除などで時には1ヶ月分位が
1度に流入することがあります。
(2) 活性汚泥法による浄化槽運転の結果から
データからCODは、原水に比べて処理水になると約90%の
処理率を示しています。
BODは、原水に比べて処理水になると93%〜99%の処理率を
示しています。
特に、注目すべき点は流入した窒素の約98%が除去されていることです。
このことで処理水を豚舎の洗浄水などに使うことが可能になり、
使用水の節約に結びつくことにもなり、畜舎排水を外部に出さない
循環型養豚経営が可能になります。
この回分式活性汚泥法による豚舎排水の処理は、簡単な設備であり
ながら極めて有効な処理方法であると結果が出ました。
12月の水質測定で、窒素があまり除去されていないのは、
流入する排水に対して水車の処理能力が落ち酸素不足になったこと
によります。
そのためもう1台を追加して現在2台の水車が運転しています。
2001年の2月にはその効果が現れてきているのは測定結果から
読みとれます。
これまでの経験では連続型の活性汚泥処理では扱いにくい高濃度
の排水を無希釈で処理するためには、この方法は便利で適しています。
本来ならば人間の生屎尿などもこの方法で処理できたはずであります。
高い汚泥濃度で運転すれば餌である微生物比の小さいところで処理を
するために悪臭もほとんど感じません。
もちろん生下水や雑排水のような濃度の小さい範囲での処理も可能
でBOD濃度の下限は100mg/lぐらいのところにあろうと思われます。
もうひとつの回分式の特徴はBODと窒素の比率が適当ならば硝化と
脱硝のバランスがとれて窒素が除去できるところにあります。
今後、飲料水中の硝酸イオンが重大な問題になりそうなことを考えると、
窒素の除去は有望な反応になりましょう。
―まとめとして―
私が1973年に始めて日本で酸化溝を実用化した、大分県臼杵市の
フンドーキン醤油で作った醤油工場の排水も同じような考え方を使って、
ゆとりのある池で回分式の曝気をかけるというやり方でほぼ成功しました。
処理に伴って少量の余剰汚泥が出ますが、これを何とか利用できないか
ということで、グッピーを一掴み入れたところ、池一面に繁殖しました。
このグッピーを収穫するために、ウナギを60尾ほど入れたら、
ほぼグッピーは見えなくなり、ウナギは順調に太っていることのことです。
1999年10月の臼杵市での「全国街並みゼミ大会」の時、このウナギを
3匹捕まえて蒲焼きにして食べたのですが、脂がとてもよく乗っていて
美味でした。
これで汚泥の収穫についても一つの目途がついたことになります。
こうして少しづつではありますが経験は集積しています。
パスフィーア博士のもとで 17年、私の手元で31年、酸化溝は
半世紀近く育ち続けています。
ここから南のアジア等でこの方式で処理場を稼働させるためには、
どうやったら電気エネルギーを使わないで十分な処理が出来るかという、
もう一つ大きな課題に挑戦することになるでしょう。
これまでこの研究が多くの人々に支えられて育ってきたように、
これからも是非皆さんの暖かい物心両面の支援をお願いします。
−下水処理を考えよう−
下水道の仕事をして来て感じることは、もう少し柔らかい技術で
水を処理できるのではないかということです。
大規模な下水道でも建設に長い時間がかかり、その間出てくる下水は
わずかずつ増加するだけですから、大きな固いコンクリート構造の
処理場を作って待つのもばかばかしい限りです。
もちろん最近は処理場も何期かに別れて作りますが、これでも
ずいぶん金がかかります。
もっと柔らかい魚池等を組み合わせて出来るものを考えてみましたが、
現場の人はどう思うでしょうか。
下水処理で一番金のかかる汚泥処理なども、大部分は魚で出来ますし、
何年か水田を魚池として使った後は土地が肥えますから、もとの水田
として使うこともできるでしょう。
とかくどこへ作るかで問題の多い下水処理場ですが、必ずしも固定
しなくても良いと私は考えるようになりました。
−−−
大里村の畜産排水浄化処理
http://www.okinawa-u.ac.jp/~ui/tikusan2.htm
この浄化施設での研究は、1999年度「環境事業団・地球環境基金」
助成事業として始まりました。
雄樋川浄化活動の一環として畜産排水処理の研究を沖縄環境ネット
ワークとの共同研究として始めましたが、現在は宇井研究室が
引き継いで研究を行っています。
(雄樋川は県内でも特に汚れている川の一つです。)
雄樋川は大里村大城ダムを起点に太平洋側の河口港川まで
全長約13kmの川です。
大里村、玉城村、具志頭村を流れて港川から海に入ります
畜産排水の不法投棄のせいと思われる黒い川。悪臭もあります。
【南部の畜産の状況】おきなわの畜産H13年度版より(県農林水産部)
1999年度11月末の統計では、県全体で肉用牛80、897頭、
乳用牛8,185頭豚303,112頭が飼養されていました。
肉用牛の約 6%、乳用牛の約59%、豚の約33%が那覇市以南の南部に
います。
豚の排泄物の量は60kgの大人の4倍、牛は38人分になります。
それを処理せず川などに捨てれば当然汚れます。
実際に苦情も多く寄せられているそうです。
そこで簡単な回分式活性汚泥法の酸化溝で畜産排水を処理する
実践研究をしています。
【大里村の畜産排水処理プラント】
この浄化槽がある場所は雄樋川の上流に位置しています。
大里村在住の畜産農家から排出される排水を処理する
回分式活性汚泥法による酸化溝。
(縦6m.横15m、高さ1.5m)
浄化槽は1999年7月15日に工事を着工し、8月10日に
完成しました。
99年9月20日から本格的な排水処理浄化の運転を開始し
今日に至っています。
浄化槽からの悪臭はありません。
【豚舎の様子】
豚舎には母豚40頭位、子豚150頭位 種豚数頭がいます。
【現在の浄化槽の状況】2002年2月
水車で水中の微生物に酸素を供給しています。
−−−
『下水道と私』
このレビューは、現代技術史研究会70号、(1997.6)に、掲載した
もので、やや時間がたっているが、私の最近までの下水道の分野における
考え方の変遷を記したものである。
この後私は沖縄における畜産排水の問題に取り組むことになるが、
それについては別に報告することにして、私の直面している問題の広がりに
ついて知るのにはこれが適切かと考えて、ここに再録することにした。
下水道の草創期
明治維新にはじまる日本の近代化、工業化の路線を、アジアに押し寄せる
帝国主義列強の足音を聞きながら必死に走りはじめた日本は、いくつかの
予期しない困難に直面した。
その一つは都市化、集団化に伴う赤痢、チフスなど急性伝染病の増加であり、
また軍隊などで蔓延した結核と脚気である。
実に衛生問題の解決は火急の課題であり、その対策には強制力が必要で
あったからこそ、衛生条件の維持は内務省のもとに警察の業務として
行われたのであった。
そして明治政府は俊秀な学生をヨーロッパ、特にドイツに留学させ、
彼等の研究はコッホの業績の中核をなした。
鈴木梅太郎等のオリザニン(ビタミンB1)の発見も、ノーベル賞
クラスの研究であり、以後天然物化学における日本の伝統的地位の
基礎ともなった。
こうして工業化の過程で必要に迫られた分野については、豊富な研究費
と人材が投入されて、世界の第一線におどり出たのであった。
これは都市計画の分野でも全く同様であり、明治初めの東京市区改正
における知事芳川顕正の「道路・橋梁及び河川は本なり、
水道・家屋・下水は末なり」という有名な建議書の文面にもあるように、
民生面はあとまわしにされた。
しかしその中でも、消化器伝染病に直接効果があり、費用も比較的安く
てすむ上水道はある程度普及したが、管路の規模が大きく費用がかさむ
下水道の建設は第二次大戦までにようやく六大都市ではじめられた程度
であった。
研究面についても、東大、京大の土木工学科の片隅に最初から
衛生工学教室がおかれていたが、学生の数も少なかった。
伝統的に土木工学科の中では、作品が目に見える橋梁などに学生が
集中したのである。
下水道で集められたあとの処理工程は、微生物による生物化学反応だが、
この分野は土木工学者にとっては全く手の出しようがないところだった。
東大では、第二次大戦後の広瀬孝六郎教授が、土木工学と医学部の衛生学
の二学科で学ぶことでこの穴を埋め、現場では大正十四年応用化学卒の
柴田三郎が東京都の三河島処理場の研究室長として、化学分析の手法
の基礎を作った。
彼の仕事は、水道試験法、下水道試験法の詳細な再現性の追試であり、
今日でもこれほどの細かい試験条件の検討はまれである。
資源調査会報告
こうした技術の流れは、足尾鉱毒事件にはじまる戦前の水質汚染の
公害の歴史とは別に展開するが、一九二〇年代に岐阜の荒田川の汚水
の被害を受けた水田地主たちが、京大衛生学の戸田教授を招いて
対策を相談したことがあった。
この戸田教授のもとで学んでいた学生の一人が、
のちに名著「おそるべき公害」を書いた庄司光である。
敗戦後、すべての海外植民地を失い、四つの島の中で生きなければ
ならなくなった日本人にとって、何が利用できる自然として存在するか
は深刻な課題であった。
このために経済安定本部の中に資源調査会が作られ、そこで重要な
資源の一つとして水資源があげられ、戦前の反省の上に立った水資源
の保全のために水質汚濁防止法の制定と、水質化学研究所の設置が
東大教授亀山直人の発案で勧告されたが、勧告を受け取った吉田茂は
これを無視した。
おそらく彼の政治資金を供給したのが選炭排水を出す典型的な
公害産業であった麻生炭坑資本であったためだろう。
しかしここで戦後日本の公害を回避する好機は失われたのであった。
もしこの時に水汚染防止の基礎研究がはじめられていたら、その後多くの
公害の予防ができて、被害ははるかに小さなもので食い止められて
いたであろう。
米国教育視察団の勧告
第二次大戦の敗戦後、焦土と化した日本の再建を助けるために、
一九四八年米国の教育視察団が三ヶ月にわたって精力的に日本の
教育制度を視察し、数多くの適切な提言を残した。
その中で大学の工学部における教育についてふれた部分があった。
それは米国の工学部をもつ大学では数多く設けられているが、
日本では全く見られなかった学科として、化学工学と衛生工学をあげ、
その必要性を強調した。
前者は化学工場の設計、運転のために必要な技術であって、
企業にとっても直接もうかる分野であることは明らかだったから、
日本中の工学部をもつ大学に普及した。
後者はそれまで土木工学の片隅におかれていた上下水道をはじめとして、
工業排水処理、大気汚染防止なども含む広い分野であったが、
直接企業のもうけを生む部門でないだけに、その設立はずっと
あとまわしにされ、1960年にようやく北大と京大に衛生工学科が
作られ、東大は更におくれて新設の都市工学科の中に衛生工学コース
として三講座がおかれた。
いずれの場合も土木工学の主導権のもとに学科は構成されたが、
境界領域として医学や化学工学が京大、北大では取り込まれた。
東大の場合には企画に当った広瀬孝六郎・東大名誉教授の構想では
第三講座を化学で構成するつもりであったが、広瀬の急死によって
実現せず、土木出身者がポストを独占することになった。
いずれにしても、当時生物学が全く視野にはいっていなかったことは、
ふりかえってみると見通しを誤っていたといえる。
1960年代に入って、日本各地で水汚染の公害が深刻な
社会問題になる。
しかし中央政府は水汚染をまともに規制しようとはせず、
企業優先の政策のもと、直接規制をできるだけ先送りしようとした。
1958年の本州製紙江戸川事件によって、大急ぎで作られた
水質保全法、工場排水等規制法は、法の目的に、産業の利害を調和
させるものであり、きびしすぎる基準を決めてはいけないと書いて
あったほどであるから、規制の対象となる工業も、規制をする水域も
すべて限定的に最小にするのが当時の政策であった。
このころ、日本の下水道技術者が手本としたのは、
ドイツのエムシャー川流域にある工場群の排水を集めて混合し、
生物処理をするシステムであり、またヨーロッパの諸都市における
合流式下水道に工場排水を放流する混合方式であった。
この種の工場排水と都市下水の混合処理は、微生物が処理の主役である
下水処理場に対しては不合理な負担になるが、企業の排水処理費用
を軽減するものとして大いに推賞された。
私が水俣病の現実に直面してこの分野に入ってきたのは、
ちょうどこの時期であった。
量的拡大と質的停滞
一九六〇年代に入って、ようやく下水道が水質公害の対策
として取り上げられるようになった。
第一次下水道五ヶ年計画が作られたのが62年であり、
そこから年々下水道建設に投入される公共投資は増加してゆく。
この量的な拡大に追われて、技術の内容そのものの掘り下げた研究は
ほとんどなされなかった。
建設工事の内容は管路の埋設を中心とする土木工事が予算の
八割以上を占めるものであったことを反映して、研究、教育の主流は
土木工学出身者が独占し、水処理の中心になっている微生物の
生化学反応については、理解すら困難であったし、またその努力も
ほとんどなかった。
1960年代半ばに、それまで行政的に下水管路の建設を主管していた
建設省と、浄化槽との関連から下水処理場を主管していた厚生省との
力関係を背景にした交渉で、下水道行政が全面的に建設省の仕事に
なった、いわゆる行政一元化も、土木技術者万能の風潮に拍車をかけた。
この背後には、増大する補助金をめぐる縄張り争いがあったことは
もちろんである。
もう一つ、高度成長経済がレールに乗ってばく進をはじめた
1965年に、最初の流域下水道計画として寝屋川流域下水道の
計画が発表されたのも象徴的であった。
下水道は上水道と並んで、本来市町村の固有業務として市町村の
区域内で計画することになっていたものを、区域をこえて広域化した
計画ができるようにしたものである。
たしかに自治体の区域界は、必ずしも自然の地形と合ってはいないので、
区域内に下水道の計画を限定することが不合理な場合もある。
しかし流域下水道計画は、それよりも高度経済成長の中で常識として
定着しはじめた規模の利益を目的として、計画規模を大きくすれば
単価が安くなり、合理的な計画になるという思いこみの上に、
百万トン/日単位の巨大化した計画が作られて行った。
当然予算規模も大きなものとなり、巨大な利権を生む事業となった。
この巨大化した流域下水道計画は、必然的に河川の下流部にある
農地を処理場用地として利用する計画になり、周辺土地の価格下落
から土地を所有する農民を中心として、なぜ広域の下水を一ヵ所に
集中して処理する必要があるのかという疑問から、流域下水道計画
そのものについての合理性を疑う住民運動が、一九七〇年前後から
各地で起こった。
この種の運動は、 建設省などが主張するように、始めは地価の下落に
反対する地域エゴイズムから出発したところもあったかもしれない。
しかし運動をつづけているうちに、次第に流域下水道計画の主張する
規模の利益や、区域内の工場排水をすべて収容することから生ずる
汚泥処分の困難など、システムそのものの問題点が洗い出される
ようになった。
反対運動の多くは、純農村地帯で起こることが多く、 地元対策として
の公共設備の建設や、地方政治で多用された利益指導による切りくずし
などのために、途中でつぶされたところも多かったが、この過程で
東大都市工学の中西助手を中心とするグループの実証的研究が果たした、
かくされた事実を洗い出す仕事の効果は大きく、70年代、80年代を通じて
建設省も目立たぬように計画を修正し、分割して処理区を小さくする
ようになったところは多い。
たとえば最初長野平、松本平など四つの盆地毎の流域下水道で全県を
おおう計画であった長野県の下水道計画は、いつの間にか分割されて
17の中規模処理区になっている。
公害の激化と1970年の世論の爆発
一九六〇年代と通じて、各地で公害問題が多発、激化して社会問題化
して来たにもかかわらず、政治の世界における対応は常に後追い、
断片的なものに終始し、正面から取り組むということをしなかった。
その結果、一九七〇年代に入ると、まず東京牛込柳町の自動車排気ガスによる
大気汚染が問題化し、つづいて光化学スモッグが東京西郊の住宅地帯
をはじめとして、大都市の住民に身近な脅威として感じられるように
なった。
それまでは公害は多く辺境の貧しい漁民や農民の被害であり、気の毒な
ニュースであっても、都市住民、特にマスメディアの中心部に居る人々
にとっては、遠いところの事件であったのが、ここに到って自分の問題
になったのである。
このような都市型公害を先頭として、公害に関する報道の量が激増した。
公害そのものもこの報道の激増によってようやく政治の課題として
取り上げられるようになった。
一九七〇年代末、佐藤栄作首相は公害臨時国会を招集して、
それまでの有名無実の公害規制法を廃止し、多少の実効性をもつ法律に
置き換えたのであった。
だがこの国会で認められた大きな変化は、それまで東京都が国と
対立して主張して来た、都条例で国の法律のゆるい基準よりも
きびしい基準を決めて実施できるという方針が追認されたこと
であった。
これによって、地域住民の健康、生命を守るために、地方自治体は
独自の基準を定められることになって、各県は競って公害防止条例
を定め、多かれ少なかれきびしい基準を作った結果、事実上日本の
どこに工場を作っても、ある程度の排水処理をしなければ操業の許可
が出ないようになった。
このことが法律そのものの効果より大きな事実上の影響をもたらした
ことがわかるには、少々時間がかかった。
排水処理の義務化と工業用水の合理化
それまで無処理で垂れ流していた工場排水をある程度まで処理するには、
たしかに金がかかる。
その費用はほぼ処理する水量に比例し、水質にはそれほど関係しない。
それならば、工場内での水の使用状況をよく整理し、一番汚れている
ところだけを処理し、あまり汚れていない水は再利用するなどの
合理化によって、処理施設の建設費、運転費を大幅に節約することが
でき、生産に必要な水の使用量もまた節約できる。
すなわち工場で使用する水に処理費用のコストがつくようになり、
その費用節約として水使用の合理化がはじまったのである。
この結果、日本全体の工業用の水の使用量は一九七四年をピークとして
減りはじめ、今日ではピークの7割程度で安定している。
この間工場内での水の回収、再利用は進んでいて、ほぼ80%の水が
回収されている。
これは排水規制という法的な手段によって工場排水の処理が
義務づけられたことで、排水処理のコストが用水の価格として
内部化され、その節約が起こり、資源の配分が合理化されたよい例
であり、経済学者の立場から見てもおもしろい事例が進行していた
ことになる。
このような自然財の価格の適正化によって利用の合理化がなされる例は
他にもいろいろあるのではなかろうかと思われるが、
経済学者が掘り下げて取り組んでいる例はあまり多くないようである。
水だけをとってみても、水道料金をいくらにするかなど、補助金制度の
効果なども結びつけて考えてみるとおもしろい。
ちなみにここであげた工業用水も、工業に安く配給するために多額
の税金が投入されて、水の価格はきわめて安くつけられているのだが、
工場の中へ入ると後で処理の費用がかかるので、工場が買わないため
水が余るという現象が起こっている。
長良川の河口堰をはじめとする各地のダム計画がムダと化したのは
この結果である。
古い水問題、新しい汚染
工場排水の問題は、水の価格づけという政策によって意外に
早く片づいた。
一つには、濃い汚染物質を発生源で除去するという常識的な対策が、
工場側によって経済的になされたためである。
これにくらべて家庭下水に見られるような面的な排出に対しては、
長い間下水道だけが対策として推進されて来た。
しかもその内容は、建設省の土木官僚を先頭とする量的な拡大だけしか
理解できない単純な頭の構造の技術者によって進められたので、
下水処理の内容の理解すら容易ではなかったことは前に一寸ふれた通り
である。
それならば化学や生物の専門家を仲間にして力を借りればよいのだが、
そういう度量もなくポストを自分たちで独占し、化学や生物の出身者
を登用せず、低い地位においていた。
このような状況のもとで、自然の物質循環のもとでは短期的に
微生物で処理、除去できる有機物の汚濁よりも、もっと挙動の
おそい窒素と燐酸による水の富栄養化に対する技術の展開は
おくれた。
この分野こそ、化学や生物のかなり高度な経験が必要であったが、
それを積極的に生かそうとはしなかったからである。
もう一つ、高度成長のもとで、大量生産、大量消費、大量廃棄
という文明を作りあげてしまった日本社会では、廃棄のシステムさえ
巨大化した利権となった。
私たちは巨大化した下水道が税金のむだ遣いであり、効果がすくない
ことを批判して来たのであったが、親しい議員の打ち明け話によると、
この批判される点がまさに金権議員にとってはありがたい下水道工事
の属性になるという。
まず下水道が入ることによって地価が上がって地主の票がとれる。
工事をする業者からは手抜き工事の金が入って来る。
工事は十年二十年かかるから、当分選挙の度にこれは俺のおかげで
来た工事だと票集めに使えるというのである。
これが今住民の間で費用が安いと話題になっている合併浄化槽などでは、
区域内に全部行きわたるのに数年しかかからず、選挙で何回も使えない。
こうしていまや時代おくれの巨大下水道計画は金権政治家にとって
かっこうの飯の種になるおいしい事業になっているというのである。
こんな連中を食わせるために私は自分の青春を下水道の研究に捧げて
きたのではない。
湖や海の富栄養化が古い汚染問題とすれば、有機塩素溶剤などに
よる汚染は新しい汚染であり、生物による除去はむずかしい。
軽薄短小化した組立産業などで使われる有機溶剤の数はどんどん
ふえており、少量の汚泥でも放置すれば地下水の汚染源になること
が多く、飲料水の汚染源の数は莫大なものになる。
これに加えて、産業廃棄物、一般廃棄物の処分場が、人里はなれた
山へのぼる傾向が明らかになってきた。
この傾向はすでに70年代から一部では眼に見えにくい形で進行していて、
表流水や地下水の厄介な汚染をひきおこしていたが、あまり注目されな
かった。
局地的な紛争は無数にあるが、やはり全国的なニュースになったのは、
まず1980年代初の米国のラブカナル事件のニュース、次いで東京都
下三多摩の一般廃棄物の埋立地が多摩川上流部の日ノ出町にあり、
その新設をめぐって、既存の埋立地が、汚染源になっているか否かを
判断するデータの公開要求が法廷で認められたにもかかわらず、
埋立地を管理する事務組合が罰金を支払っても公開を拒んで、
ついに罰金が1億円をこえるまでに累積したことの異常さから
であった。
ここでは広域行政でよく使われる事務組合という組織が、構成自治体
から出向する無能な事務員の吹き溜りになって、無責任な行政主体に
なっている実態がさらけ出され、あわせて大都市のゴミを大量生産
する生活システムの矛盾が山間部に押しこまれていることが
はっきりした。
たとえば24時間営業のコンビニエンスストアの経営は、そこから
排出される大量の売れ残り商品の行先なくしては成り立たないことが
わかる。
生産、流通の各段階で企業に都合のよいように作り上げたシステムの
問題点が、廃棄物部門を担当している自治体に押しつけられて、
税金をかけて始末させられる、この構造は不変のまま、一般家庭に
分別や資源回収の負担を押しつけても大勢は変わらない。
この問題は生産構造が変わるまで、多少形は変えても存在しつづける
であろう。
西日本では、香川県の豊島に、産業廃棄物の山がおおいかぶさり、
大量廃棄が大量生産を支えている構図が誰の目にも明らかになった。
これまで技術的には、厚生省は水への流失のおそれのないものは何も
しない安定型処分場へ、きわめてゆるい基準の溶出試験を行なって
溶出分があるものはゴムシートで水止めをし、水処理設備をつけた
管理型処分場へ、有害物質を含むものは密閉した遮断型処分場へと
いう方針で来た。
しかし実際には監視体制もなく、管理型処分場には穴があいて水が
もれ出すのが常識化していたことは、前記日ノ出町の例でも明らかに
なった通りである。
こうして産業廃棄物の処分場は、90年代最大の公害問題となり、
おそらくは日本の産業構造を変える一つの圧力となるであろう。
ここでも逃げ道を作ることは技術の役割ではない。
集中から分散へ
一九七〇〜八〇年代の水処理技術の主流は、高度成長経済のもと
で一つの時代思想となった規模の利益信仰を反映して、巨大集中型
の施設を作る方向に進んだ。
一度技術の方向が定められ、それが補助金や規格などの制度で
固め上げられてしまうと、矛盾が明らかになっても変革がきわめて
困難になる。
一方で前記の下水道の例に見られるように、政治的な利権と化した
技術システムには、それに寄生する政治家や官僚、業界のサークル
が成立し、それが自己保存本能に従って行動するから、なおさら変革
は困難になる。
原子力産業はその典型だが、下水道もそれほどの規模ではないが、
ほぼこの段階に達したと考えてよいだろう。
特に工場排水の混合処理など、異種の排水を混合すれば、特定の成分
の濃度だけを見ていれば相互にうすめ合って、どんどん低下するので
見掛上はきれいになったように見えて、その実は全く全量は変わって
いないという、一寸考えれば小学生でもわかるようなごまかしを
大まじめに住民に説明していた。
実際には経済合理性に追われる企業の方がこういう程度の低い行政
につき合いきれず、工場排水の発生源処理、あるいは工程変更による
用水合理化などの分散的な対策をどんどん適用しはじめた。
その結果処理費用も節約された。
排水を混合処理しても規模の利益はそれほどなく、工場団地などでも
各企業の負担する金額は相当のものになり、しかも一度多額の処理費
を負担すると、水を節約してもなかなか料金は下がらない。
過大な設備の固定費を受け入れの排水量に比例した処理料金で回収
しようとするので、次第に企業も混合処理の不利に気づくように
なった。
流域下水道、公共下水道についても、下水道が有害物質を引き受け
てくれるメリットと、高価な薬品を水に流すデメリットが秤に
かけられ、薬品や水の回収のために工場内の発生源で処理する方が
有利であると気づいた工場が次第に増えてきたようである。
他方で家庭から生ずる排水については、消化器系伝染病に重点を
置いた衛生上の理由から、水洗便所の排水を処理する単独浄化槽
の設置が義務づけられていたが、その処理効果は低く、有力な
有機汚染源となっていた。
70年代以降、汚染負荷が水洗便所よりも大きい台所や風呂の雑排水
までを合わせて処理する合併浄化槽の性能が向上し、下水道より
ずっと安く設置できるようになり、補助金も出るようになって
普及を始めた。
これは硬直化した下水道に比べて経済的な負担も小さく、
また処理水の利用の可能性も大きいために有力な競争相手
となっている。
考えてみれば、19世紀に都市からの汚水の排除の設備として
作られた下水道が、20世紀に入って環境を汚染するために処理を
義務づけられたが、21世紀にはおそらく逼迫する水資源のために、
利水の設備として使われるようになろう。
その時に合併浄化槽のような分散型の技術の方が、集中型よりも
有利になる方向が明らかになるだろう。
私の体験
この戦後の変化の中で、私が仕事をした分野は、
大きく分けて以下の3つになろう。
第一は水俣病の因果関係の調査から始まって、60年代以来の
公害の事例研究であり、これはむしろ社会科学の要素が大きい
研究であった。
東大ではこの仕事はまったく評価されなかったが、1970-85の
自主講座公害原論として発表された。
自主講座は一定の社会的効果を持った教育運動と見てよい。
この評価はまだ確立されておらず、私自身にも全体像はまだ
見えてこない。
第二は東大都市工学で学生実験助手としておこなった水質分析
の指導で、東大においてはこれが唯一の制度内での学生指導であった。
これも前例がないところで、決して十分とは言えない予算の枠内
でおこなった仕事であったが、水の物性論から始まって、
水の特異な性質を紹介した点と、できるだけ少ない設備と予算で、
どれだけ必要な水質因子が測定できるかを追求した点に、
それまでにこの分野になかった新しさを見ることができる。
これも一種の適正技術の研究と言えないこともない。
オランダの体験と酸化溝
1969年、オランダのデルフトにある国立衛生工学研究所に留学した際、
引退間際の細菌学者、パスフィーア博士に、彼の考案した簡単な構造の
下水処理装置、酸化溝について学んだ。
酸化溝は、崩れ止めの簡単なライニングをした土の素掘りの溝を、
運動場のトラックのように環状につないで、その一角に鉄製のブラシ
を取り付け、これをモーターで駆動して水をかき回しながら空気中
の酸素を水中にとけこませ、同時に水を一方向に流して混合させる。
酸化溝内に導入された下水は、溝内に溜まっている活性汚泥によって
浄化される。
一日数回攪拌ブラシを止めると、活性汚泥はゆっくりと沈降して
上部に処理のすんだ水を分離するので、これを流しだして放流し、
新しく一定量の下水を流入させる。
場合によっては流入は連続にしてもよい。
こうして一回ごとに反応と分離を同一の溝でおこなう半回分式操作
をとるのが小型酸化溝の特徴である。
大型の一日数千m3をこえる溝では別に沈澱池をおいて連続で処理
をすることもあるが、後述するように酸化溝の特徴のかなりの部分
が失われることになる。
発明者の細菌学者パスフィーア博士は、オランダのどこにでもある
排水溝を下水処理に応用することから酸化溝を思い付き、私に会う
までに17年間その開発に従事したという。
私は彼の最後の弟子に当たることになる。
1969年にオランダ、デルフトの国立衛生工学研究所で約4ヵ月
彼の指導を受けこのプロセスの運転に当たった結果わかったことは
次のようになる。
1) 溝の容量は処理すべき下水を2-3日ためられる大きさとする。
2) 流入は貯留槽を経て間欠的に入れるのが普通だが、
連続的に入れてもよい。
3) ブラシの動力は、1kWがほぼ20kgBOD、400人分の下水に相当する。
4) 回分運転の場合、BODは98%位、NH3-Nは80%位が除去される。
パスフィーアによれば、適当 な薬品注入でPが90%位取れるという。
5) 回分運転の場合、酸化溝全体を沈殿池として使うので、
沈殿の面積負荷がきわめて小さく、汚泥の濃度は8-10g/l 位まで
上げられる
(普通の連続法活性汚泥では1-2g/lが沈殿池で分離できる限界 )。
このため大量の汚泥を溝中に貯えることになり、無機化が進み、
汚泥のにおいがなくなる。
また汚泥の生成量はきわめて少なく、1年に1-2回抜出せばよい。
汚泥をそのまま肥料などに 使ってもにおいの問題はない。
活性汚泥法としてはきわめて低負荷の条件に相当する。
6) 要するに、処理に必要な土地面積は若干多くなるが、
最大の費用を要する汚泥処理が簡単になり、運転も自動化して
無人運転ができる。
私よりも1年ほど前にパスフィーアに接触したプラント機械メーカー、
石井鉄工所も、だいたい同じような結論になって、パスフィーアの
基本特許を譲り受け、日本での販売権を得て商売をはじめたらしいが、
その後パスフィーアには連絡がないという。
あとで帰国してから問い合わせてわかったことだが、石井鉄工所が
最初作った酸化溝のプラントは、あまりに見かけが簡単すぎて、
金が取れなかったので、後段に汚泥を分離する沈殿池と汚泥返送ポンプ
をつけ、連続式にして運転をするようにした。
これでそこそこ金はもうかるようになったが、その後連続式の
プロセスだけが日本では作られるようになり、下水道の施設基準、
すなわち補助金支出の対象となる標準規格になってしまった。
回分式のオリジナルな運転方法では補助対象にならないのである。
もちろん連続式でも活性汚泥法として動くことは動くのだが、
前記の特徴はほとんどすべて消えてしまう。
特にNの除去と、汚泥の生成が少ない利点は、連続の運転条件下では
全く期待できない。
その後酸化溝はかなり普及し、現在は一種の流行のようになって
たくさん各地に作られているが、すべて連続式であり、その特性は
生かされていない。
金もうけのために不必要な要素を付け加えるために、運転監視の
ための人員も必要になる。
こうして一企業の儲け主義から端を発したプロセスの変更が、
補助金行政から生ずる技術の硬直化と絡み合って、
発明者の意向とは違った方向に進んでしまう結果になったのであった。
これはまたこの分野の技術者、研究者が、しっかりした思想を持たず、
利益の出る方向に流されてゆく過程でもあった。
この30年間、酸化溝の日本の実社会への応用は、金もうけの動機に
よる小さな変更で、大きくその機能を損なってしまうという情けない
過程を歩んできた。
これを助けた一つの条件として、下水道の計画、建設、運転が
それぞれ縦割りにされて、相互の間に情報や経験の交流が全くなく
なってしまったことがあげられる。
幸か不幸か私はこの日本の主流の技術の外にいて、酸化溝の
ブームの恩恵も受けなかったが、自分で数例の設計、建設、運転を
やってみて、たえず各段の間に経験のフィードバックを行なう
ことができた。
いろいろたずねてみると、現在の縦割り機構の日本の中で、
このような一貫作業の経験をもっている技術者はきわめて少ない
ことがわかった。
下水道業界全体を見渡しても、こういう総合化した経験を持つ人は
大部分が引退し、もう数人しか残っていない。
そういう点では私は貴重な存在になってしまったのである。
酸化溝については、まだいくつかの課題が残っている。
一つはパスフィーアが手がけていた、燐酸の除去である。
ほとんどの地域で富栄養化の決定因子が燐酸であることを考慮すると、
燐酸の除去をいかに簡単におこなうかが今後の下水道の大きな課題
になるであろう。
もう一つは、さらに低負荷の方向に研究をすすめたら、魚池として
下水中の養分を魚で収穫できないかという考え方である。
もちろん機械を入れてエネルギーを投入すればいつでも可能だが、
ある程度高い負荷条件でも、もし初期の安定した生態系が確立する
までの時間、機械攪拌を加え、ある時期を過ぎたら、太陽エネルギー
と風だけで維持できるような魚池があれば、面積をそれほど使わなく
ても究極の下水処理が出来ることになる。
残された私の時間は、おそらくこの方向の実験に向けられるであろう。
普通の活性汚泥法は、沈殿、反応、沈殿と三つの機能を三つの池に
分担させ、それぞれの池、すなわち要素を最大効率を発揮するよう
設計し、それを縦につないだ逐次反応型の化学工場と考えられる。
これに対し、酸化溝は一つの池に三つの機能を交代に割り当てる
回分型の反応槽の様なもので、効率は必ずしも極大ではない。
むしろ積極的に効率を落として、安定性を上げている。
一つの要素を幾通りにも使うところは、一枚の畑にいろいろな作物
を作る農業と似ている。
事実下水処理は毎日何万トンという原料を扱うのだから、史上最大
のバイオ産業ということも出来る。
私のこの仕事の結論は、工業の最先端を走っていると、だんだん
農業に近くなるというところにある。
今までは農業が必死に工業を追いかけて、周年出荷、大産地形成、
規格統一など工業化を目指してきたが、私の結論はその逆である
ところがおもしろい。
実験室の整備
これまで学生時代から40年以上大学にいたことになるが、
ここでも私は幸運なことに3回実験室というシステムを作る仕事に
当たったことになる。
最初は東大の化学工学の修士実験で、プラスチックスの流れ特性を
測定する装置の開発であったが、金がふんだんに使えて、
さながら一つの研究室を作ったようなものだった。
これは金の力できわめて短期間に、約2年ほどで一応の形がついて、
後輩の大学院生でも動かせるようになった。
これが一段落して土木工学科に転科し、やがて東大に新設された
都市工学科の学生実験担当助手になった。
学生の多くは化学が苦手で建設系に進学して来るのであるから、
実習用のプログラムもごく初歩的で確実であり、そして金のかからぬ
ものでなければならなかった。
計画の初期に私が入っていなかったこともあり、学生実験に
当てられる予算はまことに貧弱なものであり、時折は私の研究費、
または生活費から穴埋めしなければならなかったこともある。
周囲の連中はおよそ化学実験に金がかかること、ガラス器具は
高価なものであることなど知らなかったのである。
こういう中で私は一連の金のかからない試験法の組み合わせや、
ヒーターとサーモスタットを組み合わせて大型の定温培養槽を作る
などの工夫を身につけた。
それから20年たって沖縄大学に転じた時には、ある程度話には
聞いて覚悟はしていたが、実験室そのものがないところから
出発しなければならなかった。
新校舎の建設と共に教室は出来たが、大学はこういうことに慣れて
いないのは当然であって、私が少なくとも2000万円はかかるで
あろうと見積もった内部の設備の費用として、大学が用意したのは
500万円であった。
2000万円というのは大体高校の理科教室の目安だから、
500万円では中学校までも行かないだろう。
東大では実験室には職員が居たが、ここには人も居ない。
私が金を払ってアルバイトの学生を使って整備をしているのが
精いっぱいである。
惨澹たるものだといってしまえばそれまでだが、これでも
前に述べたような酸化溝の研究は出来るのである。
沖縄から南を見れば、この程度の設備もないような国立研究所は
あちこちにある。
それでも試験法を使える予算に応じて段階的に組み合わせれば、
どこに下水処理場を作るべきか、生水はなぜ飲めないか、
という問いに答えることは出来る。
私はここにおいて、研究における適正技術の存在ということに
気づいた。
200年たってのことだが、リービッヒがギーセン大学の馬小屋
をもらったところから追いかけてみよう。
その他の仕事
実験室造りとその中での学生指導から派生した仕事に、水素結合を持った水分子の模型を磁石を利用して作った仕事がある。これは学生に水の不思議な物性を説明するために作ったものであるが、折りよく1994年にNHKの人間大学で、水の話をする時の導入部に間に合った。もう少し工夫をすればDNAの二重らせんや、蛋白質の高次構造、ゴムのエントロピー弾性などの説明にも使えそうな気がするが、先行して取られた特許もあり、これ以上つめる気力はない。NHKの人間大学のシリーズは12回の番組となり、折りからの断水騒ぎにも助けられて、この種の番組としては破格の視聴率を記録し、その内容に加筆した本は「日本の水はよみがえるか」と題してNHKブックスから出版された。この中で、水汚染の現状と、対策としての下水道の問題点について若干ふれておいた。
もうあまり持ち時間がない現在、酸化溝を運転する中で、曝気槽内に安定性のよい酸素電極をほうり込んで2年ほど放置したが、支障なく無整備、無清掃でデータが得られたので、これを利用してBODの直接測定をおこなう実験をこれから始めようとしている。これはひとえに前記の実験室の整備と関連してくるが、外部の研究費を導入してでも、現実と取り組むことが出来る研究室を作らなければなるまい。
結論
振り返ってみて、まずプラスチックスの製造技術者として
高度成長の盛期に塩化ビニル樹脂に関わり、
次いで逆に廃棄物の側から化学工業を分析評価する仕事に
たずさわることができたのは、やはり幸運に恵まれたというべき
であろう。
そして衛生工学でとりくんだ酸化溝も、なかなかユニークで奥が
深いプロセスであって、30年たった今でもなお実用の第一線にあり、
まだまだ研究によって応用がひろがる可能性を持っている。
こういう経過をたどってみて、技術というものは意外に人につく
属人性があって、なかなか伝えにくいものだと考えさせられる。
あるいはこれまで客観化できるものだけが技術であり、
属人性のある者はそれより一段低い次元の技能でしかないように
教えられてきたのかもしれない。
大量生産を前提にするとそういう分け方がよいことになるが、
技術でも最高度のところはむしろ伝えにくく、ノウハウといわれる
ものになるのではなかろうか。
大量生産、大量消費は大量廃棄をもたらすものであることを
技術者はこれまでほとんど考えてこなかった。
考えてもそれは企業のシステムの外にある地方政府の仕事として、
丸投げでほうり出してきたというのがこれまでの姿であった。
水資源の場合には、それが使える水資源の枯渇という形で産業社会
にはねかえってくるので、比較的早く手が打たれ、規制がなされる
ようになった。
この次は固体廃棄物の番であろう。
ここでは水よりも技術的対策が使える範囲がずっと小さく、
すぐに消費から生産へ制約がさかのぼってくるだろう。
今のところ、水については産業より民生の方で問題が大きく、
産業の制約因子となるのはもう少し先だろう。
水処理の分野では、どうやら適正技術の一つの例を提示できそう
に思われる。
こういう重要な技術の場面に生きてきて、必ずしも未来をはっきり
見とおして道を選んできたかといえば、そんなに先が見えたのでも
なく、使命感に駆られたものでもない。
ただ漠然とこの方向に進まなければいけないだろうとか、行き掛かり
上あとへはひけなくなった義理人情だとかいうものは折々あった。
技術の属人性も当然そういう影響を受ける。
研究費の出方にも左右される。
それはまさに政治であるが、だからといって政治がすべてを決める
ものでもない。
日本のマルクシストはその点を見逃し、すべてを政治権力に還元した
のがまちがっていた。
政治権力論の泥沼にはまらずにすんだのも、なにもしっかりした
見通しがあったわけでもなんでもなく、何となく気が進まなかった
だけのことである。
ただ工学部に長く居たおかげで、理論の精度というものには
工学的なイメージをもっていたことは幸いだった。
物を作る時はずいぶん細かい計算をするが、それは必要に応じて
計算をするのであって、物ができるほどに理論があればよいのが
工学部の仕事の大半である。
荷重を支える柱の太さは何メートルあればよいか、有効数字は
二桁あれば十分であり、安全率を掛ければ一桁でもおかしくはない。
無理して四桁まで出す必要はないのである。
これが私が細かい議論まで巻き込まれないの逃げ口上で、
大体の場合立場を鮮明にしないことに役立った。
現実の問題を通して法律家や経済学者など、工学部の世界の
外の人々にずいぶん出会い、教えられた。
ありがたいことに、そのほとんどが第一線の優れた人物であり、
交流によって与えられたものは、それぞれの分野で最先端の
経験であった。
工学部の中に居ると、業界との付き合いはあるが、距離を置いて
見る機会はほとんどない。
日本の公害に直面してみて、技術者の社会的責任について
つくづく考えさせられる。
また東京大学という日本の科学技術の総本山のようなところに
長く身を置いて、これまでいかにこの大学が大資本や国家権力の
ための理論を供給してきたかを身にしみて感ずる。
公害のような新しい現象に対してはこれまでの方法が無力である
ばかりか、有害に作用し、公害の因果関係のもみ消しの先頭に立つ。
いわゆる科学的方法が無力であったがゆえに公害の存在や被害との
因果関係を否定し、権力の手先になる。
今日においてさえ東京大学に代表される科学技術の説明責任は
果たされていない。
公害の検知という点では、日本の住民運動はいくつかの十分実用
に役立つ方法を作り出したといえる。
問題は地球規模の環境問題に対しても住民運動が使いこなせる方法
があるかという点だが、これまでの経過から見ると、今後もかなり
有効な指標が見つかりそうにみえる。
こうして環境問題の解明は当分今後も日本のアカデミズムとは
関係のないところで進行するであろう。
しかし水俣病の40年の歴史を振り返ってみても、因果関係の
もみ消しだけでなく、被害の限定という面でも東大を始めと
するアカデミズムはむしろ被害者を圧殺するために役立ち、
問題の解明を引き延ばし、被害者に不利な和解をもたらした。
この責任はついに正面から問われないままに、水俣病の幕引きが
されようとしている。
東大の内部に居てこの点の暴露はほとんどできなかった。
この経過を振りかえるとき、私は自分の力不足と努力の
足らなさをはがゆく思い、かつ技術者としての責任を感ずる。
かくてわが業はその半ばをようやく過ぎえたであろうか。
−−−
http://homepage2.nifty.com/watertreatment-club/
畜産(養豚)排水処理
----------------------
●畜産排水処理に【嫌気性消化法の導入】です。
すべてハイテク化されればいいかというとそうとも限らない。電子機器、薬
品機械の力にものをいわせていわば「力づく」で処理せんとする方法に対し
て自然にあるがままの働きに依拠しようとするものです。
若い世代の技術者は言葉としても知らなくなっている嫌気性消化法の再評価
です。
【注】嫌気性消化法とは、ばっ気(→本号、水処理用語集参照)を全然しな
いで酸素を必要としない微生物(嫌気性微生物)に働きを委ねるものです。
ばっ気装置(ブロワー)を必要としないので基本は無動力です。そんなこと
が出来るのかという質問を受けますが、ちゃんとした工法としてあります。
-----------------
●宮崎県西都市での事例
(有)第一飼料西都農場での水質、無放流タイプ(過程は略)
平成11年11月12日 使用開始 6ヶ月目
項 目 原水 検水槽
-------------------------------------------------------------
PH 7.6 7.4
BOD 7400.0 31.0
COD 19000.0 100.0
SS 43000.0 1.0
DO 未 0.5 5.7
塩素イオン 820.0 110.0
T-N 5600.0 270.0
NH4-N 3300.0 99.0
NO2-N 未 0.3 72.0
NO3-N 未 0.3 77.0
T-P 2100.0 0.47
(以上は単位、mg/リットル)
透視度 未 1 30以上
大腸菌群 MPN/100ml 5500 未 30
----------------
SSに注目されたい。
BODとCODが接近してることに留意。
トータルチッソ、リンは薬品機械処理でもこの数字はなかなかでない。
-------------------------
●お知らせ
1、嫌気性消化法+土壌浸潤工法が、この度、畜環リースの補助対象に採用
されました。
2、上記水質資料を含むフローシート、写真、などのカタログが出来ており
ます。ご希望の方は、メールを下さい。サイト発表は時間がまだかかります。
★畜産排水処理の現状と問題点、畜環リースなどについては、農水省畜産局、
各県畜産団体のサイトがあります。また、農林研究機関、試験場、大学農学
部の研究論文もあるようです。
★沖縄大学 宇井純教授が昨年、回分式をメインとする養豚排水処理の実践
例を水質速報値として発表されています。(月刊『水情報 』)
http://www.okinawa-u.ac.jp/chiken/houkoku/open2001_01.html
『黒い水』畜産排水処理システムについて
環境改善研究班(代表・宇井純)
2001年8月4日(土) 午後2時〜5時
「黒い水」(畜産排水)は、「赤い水」(赤土流出)と同じく、汚染源が
農業活動にあり河川をとおして流域および沿岸域の生態系にダメ−ジを与え
る深刻な環境問題である。
そのどちらも問題点を指摘されながらも長らく放置されてきた。
ただし「赤い水」については、近年、一定程度の世論の関心を集め、抜本的
であるかどうかは別にしてもその対策が講じられるようになったが、一方の
「黒い水」については、1999年に制定された「家畜排泄物の管理の適性化
と利用の促進に関する法律」への対策として畜産関係者(農家、行政担当
等)の頭を悩ませているというのが現状に近いのではないだろうか。
事実、「黒い水」をテ−マに報道各社の特集はまだ組まれていないようで
あるし、それだけ全県的な問題としては認識されていないということであろう。
しかしながら本県において畜産は、農業粗生産額のなかで占める比率は高く、
またなにより食文化のうえでも大きな位置を占める。
さらに循環型農業を推進するうえでは堆肥作り等に不可欠な原料の供給源で
ある。
このように考えるなら、この問題は、ひとり畜産農家のことに留めるのでは
なく、農業後継者の問題、地域づくり(担い手および地域計画)の問題、
流域沿岸域の環境保全の問題、循環型社会実現の問題として衆知を集めて
取り組む必要があるだろう。
http://www.ryukyushimpo.co.jp/dokusha/koe16/ke010731.html
掲載日2001年7月31日(火) 朝刊
【 論壇 】
畜産排水による汚染
「酸化溝」で処理水を再利用 金城由美子
沖縄における公共用水域に対する慢性的な水質汚濁の一つに畜産排水由来
の汚染がある。人口の集中している本島南部地方は、過密な開発や生活排水
などによって環境の破壊は進んでおり、自然が目に触れることは少なくなっ
ている。特に河川は黒く濁っていることが多く、これは畜産振興政策という
ことで畜産排水の河川放流に対して、ゆるい規制を与えているため、無処理
のままで畜産排水を放流していたからである。こうして垂れ流された汚水は、
沿岸の富栄養化と大量のオニヒトデを発生させ、さんご礁消滅などの自然破
壊を助長することとなった。
沖縄県では独自に上乗せ基準を設定していて、通常、水質汚濁防止法で
排出基準は、一日の排出量が50立方メートルの特定施設に対してBOD
(生物化学的酸素要求量)の場合
120mg/1(日間平均)、160mg/1(最大)となっている。
しかし、県内を流れる九河川において、畜産業の排水に関する基準は、
上乗せ基準として、一日の排水量が50立方メートル未満の施設に対して、
豚房施設の場合、最大で2600mg/1(豚房総面積50m2以上300m2
未満の場合)としている。日排出量50立方メートルを超える養豚農家は
少ないことから、上乗せ基準を満たしていても高濃度のまま、河川等公共
用水域に放流されている。
このようなさまざまな背景や状況などを考慮し、畜産農家の現状に適応
してしかも水質汚濁や悪臭などの環境問題を抑止できる畜産排水の浄化施設
として、同分式活性汚泥法による酸化溝の適用を目指した。
この酸化溝は、沖縄大学宇井純教授が三十二年前にオランダに留学し、
酸化溝の発明者である細菌学学者パスフィーア博士に学び長年研究を重ねて
こられた処理方法で、低コスト、簡単、しかも悪臭が除去でき、有機物と
窒素が90%以上除去できる浄化方法である。私自身、研究を始めるまでは、
汚水のにおいがなくなり、窒素が除去されることなど半信半疑であったが、
水質分析をしていくうちに、BODや窒素の除去率が高く、においがとれて
いることに驚いた。分析結果から、河川などの公共水域に放流することが
可能となり、また沖縄など水不足が問題の地域において、処理水は有効な
水資源となり、農地に散布し液肥として利用でき、豚舎などを清掃する水
として再利用できる。現在、本島離島を含め数カ所に普及しており、
環境改善に役立っていくことになるだろう。
新たに研究室では、酪農の排水処理実験の研究を開始しており、
宇井教授の指導のもと日々研究実験に励んでいる。
来る八月四日二時から、沖縄大学地域研究所において
「『黒い水』・畜産排水処理システムについて」と題して、
研究発表会を開催する。報告者は、金城由美子のほか、
宇井純(沖縄大学教授)、金城寿次(大里村農家)、
伊禮判(沖縄県畜産試験場研究員)、座喜味七郎(宮古島上水道企業団
保全課長)の諸氏。098(832)5599。
(沖縄大学地域研究所特別研究員)
−−−
http://www3.ocn.ne.jp/~farm/ui.html
石垣島一般ゴミ焼却場と最終処分場反対運動の経過
1994年今までコーラル採石場の跡地に全量のゴミを埋め立てていた石垣市
は最終的に一般ゴミ焼却場と最終処分場を建設する場所を決定した。
候補地に決まった地元の住民を中心に反対運動が起きた。
市街地の住民の中に石垣島ゴミの会を結成し、建設予定地反対住民ととも
に全市民への反対の署名運動、討論会や市長交渉など何回かもった。
また、全国のゴミ焼却場反対運動と一緒に厚生省や環境庁への統一交渉
にも参加して、ダイオキシンに代表されるゴミ焼却の危険性を訴えてきた。
そこでは多くの団体の中でも一番遠くからきたということで、特別に意見
を聞いてもらった。
私たちゴミの会では単なる反対ではなく、石垣市のゴミを他のどのよう
な方法で処理すべきかという対案を行政に提案してきた。
新しい飛行場を含め、補助金の多くつく公共工事なら何でも歓迎というのが
島の経済の一つの形だが、どうせやるならなるべく地元に多く還元するシステ
ムにしたい。
島の中での分別の工夫と地元の鉄工所などの技術で対応できる資源回収や
生ゴミの堆肥化のための設備を優先させ、多くの危険な化学物質を発生させる
焼却処分は最終手段として考えたい。
日本のODAなどの海外協力資金はその金額の多くがゼネコンなどの技術設計
施工によって使われ、、当事国のためというより日本企業の稼ぎ場所を作る
ための事業だと指摘される。
一般に燃やすゴミのうち、生ゴミは3割といわれるが、加うるに一年中庭
に生えてくる雑草、台風のあとにでる大量の木の葉や枝など、高価な流動床炉
の中で、莫大な電力とバグフィルターを使って燃やすのはいかがなものか。
一度決めたことはなかなか変更できないのが行政である。
結局市は地元部落の反対運動の切り崩しに成功し、1997年に一般ゴミ焼却場
が建設され、反対運動はみをむすばなかった。
しかしその中で、排出測定値の公表、プラスチックは燃やさない、運転条
件の規制、いつまでも焼却処理に頼らないなど、住民側といくつかの条件を
交わすことができた。
そのすぐあと、ゴミ焼却場反対運動の全国的な高まりの中で、厚生省は
欧米の10倍以上甘かった今までのダイオキシンの排出規制値をやっと新設炉
に限って欧米並の数値に下げ、極秘扱いだったダイオキシンの測定値の公表
に踏み切った。
インターネットで誰でも全国の焼却場のダイオキシン値を知ることができ
るようになった。
この数値をそのまま信じることはできないとしても、それまでの厚生省の
ダイオキシン測定値に関する徹底した秘密主義からすると画期的なことであ
った。後に厚生大臣となった菅議員によるHIV資料の公表と似て、行政の
官僚主義に一つの風穴をあけたものと思う。(残念ながら現在の石垣市の
測定数値の公表についてはそれ以前のような秘密主義が続けられている。)
これによって、大阪能勢町などダイオキシン測定値の異常に高いところが
でてきて問題になった。
これからは測定値を含め、ゴミ問題を自分たちの問題として考えることが
求められるようになる。
日本のゴミ処理は相変わらず焼却中心から抜け出ていないが、変化のまえ
ぶれとなる情報公開の進展に石垣島の焼却場反対の市民運動が少しでも関与
できたことは運動の一つの成果だったと思う
小さい島での反対運動
石垣島は白保の新空港反対運動で有名になった。
圧倒的少数の住民が実に粘り強く行政と戦って計画を変えさせた珍しい
例である。
焼却場反対の声は計画地とされた地域の住民を中心に始まった。
人口の大部分を占める市街地の住民の応援は少なかった。関心を持って
くれたのは主にナイチャーと呼ばれる内地からの移住者だった。
すったもんだのあげく、焼却場の位置が決まり、次に焼却灰を含むゴミ
の最終処分場の位置をめぐって、幾つかの候補地とされた複数の地元への
説明会が行われると、こんどはその地域の住民が反対する。
そこででてくる住民の反対意見など聞いていると、ダイオキシンなど、
実によくゴミ焼却問題の危険性を知っていることに驚かされる。
それならばゴミ焼却場について地元住民が必死になって声をあげたとき
に何かいってくれればよかったのにと思うが、自分のところにこなければ
なにもしない。
ゴミ問題で必ずでてくるNIMBY主義 (not in my backyard 我が家
の裏にできるのでなければOK) という場面をあちこちで見せられ、行政
も大変だなあと思った。
私たちナイチャーにしてみれば、こんなに美しく狭い島、どこにできて
も問題なのだからもっと島全体でゴミ問題を考えてほしかった。
しかし、住民のほとんどが親戚や会社の関係で、行政と関係をもってい
るので、よほどのことがないと行政にたいする反対運動はやりにくい。
ゴミ焼却場反対運動では、借りていた家を追い出され、職を失った人
もでた。
市の臨時職員の人から、友人に勝手に反対署名簿に自分の名前を書か
れたので、削除してほしいと電話があった。
すぐに名前を消したが、何回も何回も臨時職員の人から削除を確かめ
る電話が続き、署名一つでも都会とは意味が違うのだとわかった。
勇敢にも一人で周りの人の署名をもって市役所に乗り込んだ婦人は家
に帰る前に夫の経営する会社に電話があって、市役所の仕事がとれなく
てよいのかと知り合いの市職員からの連絡があったという。
0.00045ng/Nm3という石垣市ゴミ焼却場の
ダイオキシン測定値について
ゴミ焼却場からでるダイオキシンの多くは焼却灰の方にいくが、一部
煙突からの排出ガスに含まれる。
この測定値の公表は住民との協約の一つであった。
単位は標準状態の空気1立方mに含まれるダイオキシンの等価換算重
量で、ngナノグラムという、10億分の1グラムで表す。
−−−
宇 井 純 講 演 録
ゴ ミ か ら 生 活 を 見 直 す
焼 却 場 問 題 か ら 考 え る こ と
1995年1月19日
沖縄県八重山職員会館に於いての講演より
発行 「石垣島の命と暮らしとゴミの会」
は じ め に
この講演録は、 石垣島に建設が計画されているゴミ焼却場に対する反対
運動の中で生まれました。私達の会「石垣島の命と暮らしとゴミの会」は、
昨年の秋に結成され、石垣市議会に焼却場建設予算が計上されるにあたり、
石垣市民の5%にあたる2300人の反対署名を集めました。その後、行政に
対する要請活動などを行ってきましたが、今回、広く石垣市民と共にゴミ
問題を考えたいと思い、宇井先生をお招きして講演会を行いました。
当日は会場にあふれる程の方々に御来場頂きました。
この講演録が、市民の皆様や、全国でゴミ問題に直面している方々の参
考となり、お役に立つことが出来れば幸甚です。
ゴ ミ か ら 生 活 を 見 直 す
焼 却 場 問 題 か ら 考 え る こ と
* ゴ ミ 処 理 の 方 法 と そ の 問 題 点
本日お話しする事は、一番難しい問題だと思います。
去年の暮れも、西表のゴミの問題を論じましたが、離島のゴミの問題は、
今、日本で一番難しいことを痛感しています。
まず、何と言っても種類と量が多い。量は、倍近く、種類も非常に雑多で
ある。
両方の面で難しい。特にプラスチック、金物など自然に戻らない物質が
どんどん増えて行く。
今まで、日本の各地でそれぞれ苦労して、その土地にあった工夫をしている
のですが、八重山や、離島は一番難しい問題を抱えているんです。
ゴミ処理は、各地でいろんな方法がとられていますが、今石垣で行われ
ている埋め立ても、それらの方法のひとつです。何でもかんでも穴に埋め
て行くこのやり方は、世界の7割位でやられています。
フィリピンのマニラ、メキシコシティなど、南の国々では、ゴミあさり、
つまりゴミの中から為になる物を掘り起こして、それを商売とする人達が
何千人とゴミ捨て場にいまして、近くに住んで通って来る。
一日朝から晩まで働いて、例えば、ビニールのフィルムや金物を何百円分
か拾い、その日を食べていく人が千人というケタでいます。
それに加えて、カモメとカラスが何千羽という数でおりまして、その上に、
ネズミを狙ったハゲタカがやって来ます。
これを「ゴミの航空隊」と冗談に呼んだりします。
このようにして、第3世界の都市では、他に道が無いので埋め立てに頼っ
ている。
しかし、非常に不衛生なので、1mゴミを埋めたら、1m土を入れる、
いわゆるサンドイッチ方式というものが工夫されてきました。
アメリカは広いので、土地がたくさんありますから、埋め立てをしていま
すが、原則として、サンドイッチ方式が前提です。
それでも、埋立地はしばしば地下水汚染の問題を起こします。
それから自然発火。これもバカにならない。
メタンガスが湧き、一旦火が着くと水をまいた位では消えないので、
慢性的に火災が起きている。
日本でも、ここまでいかなくても、大問題になったのは、銚子で、産業廃
棄物の埋立地がやけに熱くなった、という事件が3年ほど前にありまして、
これは何年も続いています。
燃えるまではいかないんですが、熱くなっている。
表面の土が手で触れない位熱いんです。
掘り返してみると、中で燃えてはいないが、しかし何か熱が出ている。
そういう風な状態が起こる場合もある。
ですから埋立地では、地下水汚染と火災の問題に気をつけなければならない。
これは今まで石垣でも気にせず埋め立てていたので、当然地下水汚染の
心配はあります。今までの問題として、承知しておかなければならない。
次に多い方式は、焼却です。これはヨーロッパと日本に多い。
本家はヨーロッパです。
ヨーロッパの場合は、ゴミを燃料として発電に使った歴史がもう100 年以上
あります。
ヨーロッパの大都市では、大体19世紀の末位からゴミを発電に使いまして、
かなり燃料として活かしました。
そういうこともあって、ヨーロッパの特にドイツを中心とする中部では、
発電を目的とした焼却が多い。
日本に本格的に焼却が入ったのは、戦後です。
では、戦前は一体どうしていたかというと、これは実は、あんまりゴミが
出なかったし大都市も無かった。
これは、石垣でも今、焼却の問題が出てきましたが、それまでは埋め立て
などで何とかやってこれたんです。
今70、80 歳の世代の方だと、ゴミを“ちり”と言いますけど、おそらく
ちりの問題に深刻に付き合った記憶は無いと思います。
海べりに投げておけば、大概どこか行っちゃった、あるいは、自然に返っ
ちゃった、というのが、今から50年以上前の生活では普通だった。
ゴミを気にしなかった。
内陸部でも、大体堆肥などに使ってしまいましたから、そうならない物、
金物とかガラスとかは必ず集めに来ます。
それでお金少々に変えることができて、殆どゴミは出なかった。
そういう時代がありました。
日本の場合も戦後になってゴミが大量に出るようになりまして、東京から
始まって、大都市に焼却が普及しました。
しかし、焼却だけではどうにもこなしきれません。
東京などでは、いつでも燃やしきれないゴミが相当多量にあり、また、
燃やせない物、燃えない物、燃やしたら害が出る物、こういうものは、
どうしても埋め立てに頼らざるを得ない。
ということで、焼却と埋め立ての二本立てに頼ってるのが、日本の大都市
の現状です。
ここで、燃やすと毒が出る物について話します。
私が昔作っていた塩化ビニールなんかは、この典型です。
恐らく皆さんのポケットの中には1つか2つ位、塩化ビニールの製品、
いわゆるレザー製品という物をお持ちだと思います。
これを燃やすと、塩化ビニールの原料に戻りまして、塩酸ガスと、
もう1つ、重金属(安定剤として、塩ビが焦げないように中に入れて
ある。)例えば鉛とかカドミウムとかが猛毒のガスになって、出てきます。
ですから、ゴミ焼却炉の回りには、大体毒が出るというのが、常識になっ
ております。
ダイオキシンもその1つです。
ダイオキシンというのは、燃やす時に出来てしまう毒です。
塩化ビニールや、その他プラスチックに入っている毒は、初めから入っ
ている毒です。
この毒が何処まで広がるか、という調査は、実は無いんです。
焼却炉を作る時、いつも議論になり、市町村が発表する報告書なんかでは、
「予測の結果、毒は出ません、安心です。」と書いてあるんですが、
実はこれを実際に測った報告書は、日本に1つしか無いんです。
1つしか無いというのは、今から20年程前、日本中で大学闘争があって、
学生が先生の言うことを聞かなくなった時期がありました。
その時に京都大学の大学院生が教授の言うことを聞かず、京都市の下水処
理場から出る下水汚泥を燃やす焼却炉の回りに、どんな風に毒が積もった
か、という土壌汚染を調べた。
教授と喧嘩しましたから、「自腹でサンプルを集めて、自腹で分析して
やった事だから、俺が発表するのを、誰も止められるもんか」と言って、
学会に発表したのが、唯一の調査です。
それは当然の事ながら、炉の煙突の一番そばに、一番毒が溜まっていて、
だんだん離れた所に向かって薄くなる、という報告でした。
これは学会誌に載っています。発表したものを消す訳にはいかない。
私の知る限りでは、いわゆる権威のある学会誌に焼却炉の吐き出す毒、
大気汚染の結果が出た例は、それだけです。
後はどうしてそういう研究が出てこないかというと、はじめから教授が
そういう研究をやらせないからです。
普段から市町村から研究費をもらったり、卒業生を就職させている大学
教授としては、行政にマイナスになるような研究は絶対にやらせない。
私の居た東大もそうだったし、京都大学もそうだったが、たまたまこの
一例だけは漏れてしまった。
東大闘争の時も、やはり何人か、教授の言うことを聞かずに、行政が損を
するような報告を出して、その責任を取って、教授が東大を辞めた例も
あります。
富士田子ノ浦からパルプ工場の排水が、どう広がるかという計算と、
現実の違いを、学生が指摘しまして、「害は無い」という報告書を書い
た教授が責任を取って辞めた例もあります。
そういうある一時期を除いて、行政に不利な研究が大学の中で許された
ことは、その後もずっと無いんです。
従って、行政に不利な報告も無い。全部計算です。
計算が現実とあっているか、ということを確かめた例は、今言った京都の
一例しか無い。
ですから、「害が無いから大丈夫だ」という報告書は今のところ、全部
信用できない。
現実に当てはめて試した、というのは無いんです。
こういう話からすると、焼却すると毒が出る物と、燃えない物は、初め
から焼却炉に入れる訳にはいかない。初めから分けたほうがいい。
それから、燃えない物の中に、瓶、缶類という容器がある。
容器と言う物は、出来るだけ少ない物質で、出来るだけ大きな空間を包み
込むように工夫して作った物ですから、それがゴミになると、まさに裏目
に出まして、最大のかさばるゴミになります。
こういう風に、我々の生活には、使う時は便利ですが、終わってみたら
丸々逆になるような物があります。
瓶、缶類というのはまさにそうで、燃えなくて、かさばる。ゴミの中で
一番厄介な物のひとつになる。
その他に、回収出来る物があります。
リサイクルと言いますが、例えば紙類、金物類、特に銅(あかがね)とか
アルミとかは、今でも回収した方が得です。
ちゃんと売れます。回収機関があります。
こう言った物は、普通リサイクルする。
こういう風に、埋め立て、焼却、回収、いろいろなゴミとの付き合い方
がありまして、それを組み合わせて、それぞれの地域で一番良い方法を
日本中で工夫しています。
ですから、何処にでも合う正解というのはありません。
これは、私が沖縄大学で学生と付き合ってて、最近困ることなんですが、
今の学生諸君は、どんな問題にも正解があると思ってしまうんです。
ひとつがあってれば、他はみんな間違ってると思う。
「どれが正解ですか?」と、すぐ聞くんです。
「そうじゃなくて、考えて自分の道を選ぶんだ。自分の道には正解は無い。
自分の責任でやるしかないんだ。」という話をすると、途方に暮れる。
「どうしましょう?」となるんですが、まさにゴミの問題は、正解が無い
んです。
つまり、東京の正解が、石垣には当てはまらない。
石垣は石垣の答えを自分で出さなければいけないんです。
* 現在の石垣市のゴミ焼却場問題について
今度の話を聞いて、「これはどうもまずい。」と思ったまず一番目の
ことは、コンサルタントが、業者の代理人になってることです。
例えて言えば、今、石垣市長はたまたま元お医者さんですが、医者という
のは、絶対に患者の立場に立たなきゃいけない職業です。
患者の立場に立たずに、薬屋の立場に立ったり、病院の経営者の立場に立っ
たら、それは医者としての資格失墜です。
医者はどんな場合にも、患者の身になって医療を行わなければならない。
それが基本です。弁護士もそうです。
弁護士も依頼人の立場に立って、依頼人の利益になるように働かなければな
らない。
ですから、双方の代理人を同じ弁護士が兼ねることは厳重に禁止されていま
す。
つまり、売り主と買い主の間に立って、両方の利益を代表する
ことは出来ないんです。
必ず、頼まれた側の利益に立って考えなければならない。
コンサルタントも同じことで、市からお金をもらって計画を作る以上、
市町村の立場に立って、市民にとって何が一番いいかを考えなければならな
いんです。
ところが今の日本では、コンサルタントがゼネコンの営業まがいの仕事
をしても、誰も不思議に思わない。これは間違いです。
今度の石垣の話を聞いて、まずい、と思った最初の問題は、コンサルタント
が業者の代理人みたいに動いていることです。
石垣市が依頼した以上、コンサルタントは市民の立場に立って、どういう
計画を作ったら最適かを考えなければいけない。
特定の方式を売り込んだり、特定の業者の手先になるようなことは、
やってはいけないんです。
ところが、株式を見たら、日立とか新日鉄とか、まさに焼却炉メーカー
の資本でコンサルタントが成り立っている。
これは、医師が薬屋の代理をやってるようなものです。
ここに最初の間違いがあったと思います。
次に、正解の無い問題を、2カ月位の間で正解を出そうというのは、
どだい無理です。
議会でもそういう議論を殆どしなかった、という話を聞いて、
「これはいけないな。ヘタをすると、・・・・いろいろ利害が絡んで言い
にくい事ですが、・・・・新石垣空港の二の舞いになる、にっちもさっちも
いかない決定をよく考えずに下してしまうことになりかねない・・・・」
と感じました。
ゴミの問題と言うのは難しい。
特に日本中でもここが一番難しい所なんです。
1年や2年かかるのは当然です。
5年前からの計画だ、という話ですが、実は、こういう買い物は、
中央では必ず談合の対象になってまして、何十億円という規模の買い物
は、まず10年先まで談合が決まってます。
これは常識です。
ですから、どの業者が落札するかというのは、すでに決まっているん
です。
もう1つ、こういう公共の買い物についての常識を申し上げます。
「正味のコストは55%」という記事を今から10年程前に“談合”という
連載で朝日新聞が載せたことがあります。
私もその記事を読んで友人の土木業者に尋ねました。
「55%という数字は本当か?」
「本当だよ。」
というのが答えでした。
事実、茨城県の波崎の町で、20億円の焼却炉を入札した時、談合が崩れ
11億円で落札しました。まさに55%です。
では残りの45%は何処へいくのか聞いたら、
「地元に文句を言う代議士か何かが居たら、そこにいくんだ。」
というのが、友人の答えでした。
朝日新聞では、「地元の工作資金」と書いてある。
つまり、誰それ先生が、この予算を取って来た、と言う時にはそこにいく
のが、45%です。
何もなければ、それは業者の儲けになる。
ところが、沖縄の場合、那覇で経験したことですが、浄化槽を那覇市
が発注した時に、東京で聞いた相場の5割高かった。
どうも沖縄の公共投資の買い物は、東京に比べて更に5割高いようです。
そうしますと、東京の値段の55%が正味の値段なら、沖縄では正味の
値段は三分の一ということになる。
三分の二は、地元工作費ということになりかねない。
私の経験ではそうです。
今回これだけ急ぐからには、そういう事があるのではないか?
少なくとも、石垣側には無くても、東京側には10年前からの談合は必ず
存在します。これは業者は否定しないはずです。
もちろん面と向かって「あなた談合してますか?」と聞いたら否定するに
決まってますが、法廷で宣誓などして、万一言った事が間違っていたら罪に
問われることが前提で証言を求めたら、業者は否定しないはずです。
ですから、5年前から決まっていたという議論に対しては、
「いや、業者の間では10年前から決まっているよ」という返事が返って
来ます。
そういうものだったら、もう1回もっと時間をかけて、方式を練り直した
方がいいのではないか、というのが、私がこの問題について相談を受けて、
ここにくることを決めた理由の1つです。
仕事柄、公共投資の仕事を扱うんですが、特にこの業種、焼却炉とか
下水道という関係では、談合は多い。
多いと言うより、日常的、ということを知っています。
そしてこのように非常に急いだ決定をしたということは、
「これは、やはり止めたほうがいいんだろう。」と考えます。
* 石垣市のゴミ処理方法についての提案
1つの方法に全面的に頼るというのは、多分正解ではない。
また、ここで考え直してみると、逆に石垣が独自の方式を考え出したとしたら、
それは日本中の離島なり、あるいは観光地に対する1つのお手本になります。
実に観光客と言うのは、金を持って来てくれるけれど、ゴミの立場からすると
厄介な物でして、持って来たものをみんな捨てて帰るもんですから、
種々雑多な問題が出てくる訳です。
が、これを何とかうまく抑え込む手があれば、日本全国の手本になります。
例えば、私が石垣の市長だったら、まず一番最初にやるのは瓶、缶容器類に
ついて保証金を掛けます。
いわゆるデポジット制です。強制デポジットです。
市の中で売っている缶入り、瓶入りジュース、ビールなどに、10円、 20 円
なり、保証金を付けます。
使い終わってからお店で容器を返却する時、保証金を返す。
これをやると、経団連が憲法違反だと文句を言ってくる可能性がある。
つまり財産権の侵害だ、ということです。
自分達は、既得権として、瓶、缶類を売り付けて、そして処理の費用は
石垣持ちでやって来ている。
今のゴミ処理方法はみんなそうなっています。
包装材料などは、みんな市民に売り付けて、出てきたゴミは、石垣市民の税金
で処理する。
業者はその負担をしない。
ところが保証金制度になると、瓶、缶類は戻って来てしまい、始末しなけれ
ばならず、費用がかかり、儲けが減るから、財産権の侵害だ、という理屈です。
「裁判にかけるぞ」と、脅しをかけて来ます。
大体、十中八九、「裁判!」というと自治体の役人はビクッとして、
「やめとこう・・・」という事になる。
ところが、ここで裁判を受けて立つとどうなるか。
私は、新潟の第二水俣病以来いくつかの裁判を経験したのですが、こんな
面白い物は無い。
法廷で宣誓をして、本当のことを証言しなければならない。
嘘を言ったら処罰されます。
しかも、多少お金もかかりますが、時間もかかる。
最高裁に行くのに、最低10年はかかります。
その10年間は保証金制度をやった方が得です。
その間に制度として成立する訳です。
最高裁でダメだ、と言われたら、その時諦めればいい。
その頃には、世の中が変わっています。
実を言いますと、もう厚生省あたりでは、ちゃんと政策として保証金制度
を考えよう、と言い出してきた。
前は、全然問題にならない、と言っていた。
それが去年あたりから制度として考えよう、と言い出してきた。
通産省は依然として反対しているけれど、厚生省はむしろ保証金制度を推奨
する形になってきている。
10年経ったら多分通産省も多勢に無勢。
世界の大勢がそうですから・・・・。
つまり、物を作って売り付けて、後始末の費用は住民任せ、と言うムシの
いい企業は世界中で相手にされなくなります。
既に、ヨーロッパ連合では、この動きがあります。
作った物は消費、廃棄の段階までメーカーが責任を持つ。
自動車も廃車にした時、ちゃんと回収出来るような部品の組み合わせで
なければいけない。
そして、これを国際規格にしよう、という動きがあります。
ISO(工業規格を国際的に統一する機構。JISの世界版)の14、000と言わ
れているシリーズがあります。
これはヨーロッパが中心になって、生産した物が消費され廃棄されるまで、
ちゃんと回収出来るような、環境に負担をかけないような物に対して、
この規格に合っている、という一種の承認を与えよう、としたんです。
ヨーロッパではこういう物しか売れない、という申し合わせを進めようという
のに対して、アメリカと日本は今必死になって抵抗している。
ですが、あと数年でこの日本の抵抗は出来なくなる。
つまり、廃車になっても部品がちゃんと回収できる車でないと、ヨーロッパ
に売れないことになるんです。
このように世界の体勢は流れている訳ですから、あとは、どこが一番最初に
保証金制度をやるか、です。
保証金制度を最初にやった町と、おそらく2番目の町までは、全国から視察
団が来ると思います。
どうしてやったのか、どういう難しい事があったのか、どういう抵抗があっ
たか、どんな効果があるのか、という事を調査しに視察団が全国からやって
来ます。
議員達の調査団ですから、お金を持っています。
多少高い宿賃を払っても大丈夫です。
つまり保証金というのは、最初と、二番目にやった町位までは、観光資源に
なるということです。
もうひとつ、私が市長だったらやる事。
塩化ビニールはゴミの中で一番厄介です。
つまり燃やせば毒ガスになり、重金属が残る。
今日聞いた話ですと、スイカの栽培は、どうも塩化ビニールのフィルムで
ないとうまく行かない、という事ですが、あとは大体農業用の用途でも、
ポリエチレンやポリプロピレンや他のフィルムで何とか間に合います。
そこで私が市長だったら、塩化ビニールに石垣だけ100 %の税金をかけます。
スイカはちょっと高くなりますが、それ以外の物は大丈夫だろうと考えら
れる。
塩化ビニール製品は何でも100 %税金をかけます。
そうすれば、不要不急な塩ビ製品は入らなくなります。
スイカのものだけ入るかもしれない。
あとの不要不急な塩化ビニール製品が入らなくなれば、プラスチックの問題
もおそらく7割は解決します。
残りの3割は、場合によっては燃料として考えてもよい。
しかし、もちろん燃え過ぎますからプラスチックは燃やさないでむしろ取っ
て置くほうがいい、という提案を私は支持します。
とにかく塩化ビニールだけは減らす。
これも、石垣市だけの税金という制度にしたら、全国から視察団が殺到し
ます。
私が市長だったら、まずこの二つをやります。
では、次にやるのは何か?
次にやることは、沖縄県内外の、ゴミの分別や焼却の現場にいる作業員、
担当の人を集めて、石垣で会を開き「石垣の問題に対して、現場の立場から
皆さんはどういう提案をするか」という知恵を借ります。
もちろんゴミの現場も見てもらう。それは学者よりもむしろ現場で働いて
いる人の方が、毎日ゴミで苦労してるだけに、どうすればいいか、という
答えをみんなそれぞれの地域で持っている訳です。
それを石垣に当てはめるとしたらどうか?
そのまま使えるか、使えないか、という事をここで話す。
そういう「ゴミ屋の会議」をここでやります。
私の和光大学の教え子の一人に、故郷に帰って公務員になりたいけれど
現業しかない、ということでゴミ屋になった人がいます。
もちろんきつい職場で、さんざん苦労し、気の滅入るような毎日を記した
日記を「草の根通信」という大分県の中津で松下竜一さんが発行している
ミニコミ誌に、実名で連載したことがあります。
実にゴミ屋というのは、大変な仕事なんです。
一生懸命ゴミを集めていると、子供を連れた奥さんが「坊や、一生懸命
勉強しないと、あんなになっちゃうのよ」と、目の前で言われる。
その時は、本当に落ち込むけれど、しかし「俺が仕事を辞めたら、
この町はゴミで埋まってしまう」と思い直して、また仕事を続ける。
市長が変わったら、課長も変わり、それまで企画課長だった人が飛ばされ
て清掃課長になった。
どこの町でも同じだと笑ったんですが、それ位の課長ですから、やる気が
あって一緒に取り組んでゴミの問題を少しでも改善しよう、といろいろ
工夫をした。
また市長が変わって、その課長は栄転して、総務課長になってしまった。
代わりに来たのはやる気の無い課長で、また元に戻った、と正直に書いて
ある。
私も感動して「よくぞ本当のことを書いてくれた」と手紙を出したら、
「実は、私は和光大学にいてあなたの講義を聞きました。その時は、
公害問題なんていうのは、あまりピンと来なかったけれど、自分で毎日
扱ってみたら身にしみました。」と書いてあった。
現場の人はそういう経験をいっぱい持っているんです。
それを集めて石垣の方法を考えていく。
それには最低1年位はかかる。
その上で、市民の協力を仰がなければ、この難しい問題は絶対に役場の
机の上で考えただけでは、うまくいくものではない。
あるいは、議会の裏取引で話がつくようなものではない。
市民が参加して、協力し、現場がその気にならなければ、ゴミの問題と
いうのは絶対に解決しない。
その代わり、それが出来たら、石垣は日本中の手本になって、全国から
人が勉強しにくる場所になります。そのチャンスです。
私が市長だったら、このチャンスを逃しません。
私はまだ、大浜市長にお目にかかる機会が無いんですが、ぜひ、この事は
市長に伝えて頂きたいと思います。
ゴミ問題は、石垣が日本の先頭に立つひとつのチャンスです。
石垣がやらなければ、ひょっとすると竹富が先にやるかもしれません。
あるいは渡嘉敷が先にやるかもしれません。
日本では、流行歌の業界には「柳の下にドジョウが2匹」という諺がある
そうです。
「柳の下にドジョウは2匹いない」というのは知ってますが、
「2匹いる」というのはどういう意味か、と聞いたところ、
「真似する奴は2回目までは何とか儲かる」そうなんです。
3回目からは儲からない。
日本の先頭に立つチャンスも2番目までならいいかもしれないけれど、
3番目ならもうだめです。
ですからやるなら1番にやるのが効果があるのではないか、やるなら
今がチャンスだということです。
* 予算の資金繰りについて
決まった予算が執行出来なかったら大変だという議論があります。
しかし空港の決まった予算もずうっと執行出来ずに今まで伸びている訳
です。
それに比べてゴミの問題ははるかに大義名分が立つ訳です。
もっといい方法を探すために、もう1年かけるんだ、ということであれば、
1年、2年位は待つはずです。
というのは、厚生省自体が、こういう風な名案をどこか全国から持って
来ないかと探しているんです。
ところが残念ながら、日本の自治体は上を向いて、補助金が付く仕事から
先にやる習慣が身についてしまったので、特に沖縄は高率補助ということ
で補助が付かないとやらない、という姿勢なのでアイデアが出て来ない
のです。
困ってるのは中央政府です。厚生省です。
最近は薬が効き過ぎて、日本政府は困ってしまった、という事例が幾つも
あります。
例えば中学生のいじめ、学校のいじめです。
これは大人が弱い者いじめをやっている。
「お前は、学校出てないからゴミ処理やるのは当たり前だ」というような
いじめをやっていれば子供が真似するのは当たり前です。
文部省も先生いじめをやっている。
「お前達、言うことを聞かなければ損するぞ。」と言っていじめるから、
子供はその真似をして人殺しまでしてしまう。
そこまでいじめが徹底したんです。
文部省が先生いじめを徹底させたら、学校でもいじめが起きてしまった。
それで文部省は困ってしまった。
日本中、人の顔色ばかり見て自分でやる気の無い青年が増えて来ている
ことを示す、青年の意識調査が最近出て来ました。
1993年に世界の主要な国の青年の意識調査を総理府が他の国と協力してやった
んです。
そうしたら日本とロシアで、「自分がいくら頑張ったって、政治は変わらない
から、投票する以上の政治行動はやらない」というのが、トップになりました。
世界の中で、最も青年が政治にそっぽを向いている国が日本とロシアだと
いう結果です。
投票でさえ、やったって無駄だ、というので行かない。
今のロシアの状況は外から見たって理解出来ます。
確かに、大混乱の中にあって、青年が何やってもどうにもなるもんじゃない、
と思うのも無理ない。
しかしそのロシアと日本の青年が政治に一番遠いところにいる、ということに
なって文部省は薬が効き過ぎた、と困ってしまった。
学校で政治の大切さ、投票の大切さを教えるようにしよう、と方針を変えた。
このように、薬が効き過ぎてしまって、困ったという例があちこちにある。
厚生省もそうです。
全国にゴミ問題のいいアイデアはないか、と呼びかけてもいいアイデアは
出て来ません。
今まで補助金の付く事業しかやって来なかったから、自分の頭で考える習慣
が無いんです。
そういう中で、石垣なり、竹富なり、離島が自分の頭で考えて、自分の方針
を持って行けば向こうはお金を出します。
実を言うと、日本全国の中で予算編成期に中央に陳情に訪れる役人が
一番多いのは山梨県で、二番目は沖縄県だという統計があります。
しかし山梨県から東京へ行く旅費と、沖縄からの旅費を比べたら一桁位違い
ます。
しかも沖縄県の役人が東京に行く時は、お土産と人間関係だけで交渉に行く。
理屈を持って行かない。
これが必要だから予算を付けてくれ、という理屈を持たないで、泡盛と人間
関係だけで、「お願いします」と言って足繁く通って予算を取ってくる。
それで来るような予算は、たいしたものじゃないです。
やはり、金を取りに行くにはそれなりの根拠を持って、また、断りに行くに
も根拠を持って行くしかない。
この事を痛感したのは赤土の問題です。
これだけ沖縄中で赤土が問題になっていながら、過去20年間、沖縄県から
中央の官庁に、「赤土が流れないように工事を考えてくれ」ということは、
ひとことも言ってないんです。
87年に私が農林水産省へ行きまして、構造改善局長に会って
「あんたらの事業で沖縄は赤土が流れて大変苦労しているけれど、
何とかならんのか?」と言ったところ「へえー、それは初めて聞きました。」
というのが局長の答えでした。
「全然言って来なかったのか?」と聞いたら「いや、言って来ません。」
と言う。
土を流すのが目的で事業をやってるんじゃない、土地改良というのは、
土を止めるために工事をやってるんだから、例えば沈澱池のために余計予算
がいるとか、勾配を緩くしたら土工量が多くなって金がかかったというのは
しょっちゅうあります。
そのために、予算も取ってありますが、沖縄県からそういうふうに金を使っ
てくれと言って来たことは一度もありませんでした、というのが87年です。
復帰後20年近く、沖縄県の役人はついに一度も国に対して文句を言わなかった
ということです。
私が最初だったんです。そういう経験をして気づいたんですが、どうも税金
の使われ方が、ここはおかしい。
予算を取るために陳情する、そのために使った金と、取って来た予算とどっ
ちが大きいか、という県政のやりかたをしてるんじゃないか。
山梨県の次は沖縄県だ、というのは決して自慢になる話ではない。
しかも理屈抜きで、お土産と人間関係だけで頼んで歩いてるのだから、
ちっとも自慢出来ない。
ですから、今年使わなきゃ予算が流れるという問題に対しては、私は流すなら
流していい、流すだけの十分な根拠をもって流そうではないかと呼びかけ
ます。
1年待とうじゃないかと・・・。
話が結論に飛んでしまいましたが、何故、私がゴミのことについてこんなに
気になるかと言いますと、私の本職の下水道というのはゴミよりもう一桁余計
に金がかかる事業です。
今日聞いたら、石垣市なら300 億円位の総事業費がかかるだろう、 と課長さん
が言ってました。
今まで日本中のあちこちの経験から言いますと、20 年後の総事業費は、大体
倍以上に膨れ上がります。
そういう経験からすると、恐らく6 〜700 億円は食うんじゃなかろうか。
ちょうどゴミの一桁上の予算を食う事業が、下水道である。
そして、この下水道はゴミ以上にいっぱい問題を抱えている。
そしてゴミの場合でも何か計画が過大すぎる感じがあるのに、予算を膨らま
せばその後の維持管理費、つまり皆さんの負担が大きくなる、という問題が
あります。
設備投資には補助金はきますが、維持管理費にはきません。
ここでもろに市税の問題がからんでくる。
では、有料化すればいいかというと、それは、税金として負担するか、
ゴミを出す時に払うか、の違いで、出所は同じ、項目が変わるだけです。
ですから有料化だけでは答えにならない。
もちろん将来の問題として有料化ということも考えなければならなりませんが、
今言った回収や保証金制度あるいは有害物質が出る塩化ビニールに対する課税
というような問題をみんなひっくるめてやるのでなければ、おそらく問題の
解決にはならないでしょう。
東京の武蔵野市の話です。
私は武蔵野市のことに最初から関係してまして、相談を受けたんです。
市が決めた予定地の人が反対したところ、
「ただの反対ではけしからん。どこか代案を出せ。」と市に言われたが、
そんな簡単に代案が見つかるものではない。
いろいろもめた末に、
「市長がそれ程安全と言うなら、市役所の隣はどうだ」という話になって、
結局そこに落ち着いた。
また、大阪の東の松原市の若林というゴミ焼却場の予定地に決まった所は、
「俺達は断る。その代わり俺達のゴミは自分で始末する」と言って、
メタン発酵で銭湯を沸かし、農村部との境なので生ゴミを堆肥にして
外に出さない、ということをもう17〜8 年続けてきていて、ついに、焼却炉
の計画は潰してしまいました。
それから大都市周辺の例として、吹田では阪大の熱心な先生がいて、
大学を辞めて市のリサイクルセンターの所長になり、高齢者向けの仕事を
・・・ということで、 リサイクルセンターで自転車の修理をし、 直したものを
第三世界に提供したり、さまざまなリサイクル活動を市の第三セクターとして
やっている。
このセンターは、大きなゴミ焼却炉のそばにあってリサイクルが出来る物を
そこで最大限にリサイクルしたうえで残りを焼却する、というやり方を取って
います。 そういう事例もあちこちにあります。
こういうことを活かして、石垣なりの答えを出す、 ということを提案します。
せっかくのチャンスなので、予算が付いたので執行するという機械的なやり方
で、 今までうまく行ったことがあるか?
これを思い出して頂きたい。
上から決まったことをそのままやればいい、ということで、それにのっかって
実際痛い目に遇ったのは石垣市民ではなかったか?
例を挙げなくても皆さん思い当たる節があると思います。
今度もそれを繰り返してはいけない、というか、予算が付いたからやる、
という安直なことでは必ず痛い目に遇う。
そして、千載一遇のチャンスを逃すことです。
石垣でみんなが食っていけるようにするには、このチャンスを生かして、
観光資源を作る位の取り組みを是非ここで実現して頂きたい、というのが
私のお願いです。
先々週、宮古に「水の会議」で呼ばれまして、宮古で水の問題、生きる
基幹の大切な問題について、平良で400 人近く集まったんです。
水というのは生活の一番の基盤であり、ゴミは我々の生活の結果として、
我々の生活を象徴するものです。
これから先、ゴミという至難の問題と、生活基盤である水の問題、この2つ
とどう付き合うか、というところで一つの手本になることです。
是非皆さんの答えを出してほしい。
日本の中でここでしか出来ない、あるいはここの真似をよそでするような
いい答えを皆さん自身で出して頂きたい。
全国一律の正解というものは無いのです。
そして、このように難しい課題を解くのには、もちろんコンサルタントも
必要だと思います。
しかしゼネコンの代理店みたいなコンサルタントでは無理です。
本当に市民と市の立場になって考えてくれるコンサルタントを公募すれば
いい。
沖縄全体について言える事ですが、コンサルタントの使い方が下手です。
ごますりしか雇いません。
一番ヘマな結果を招いたのは、新石垣空港です。
海の濁りについての調査を3回やりました。
白保の沖合2500mのアセスメント、滑走路を2000mに短縮した時の
アセスメント、そしてカラ岳東のアセスメントです。
一番最初、86年の夏に私は沖縄県に口を酸っぱくして
「この計算は間違っている。富士田子ノ浦の時、現実とは異なっていたため、
東大教授が一人責任を取って辞めた、そういう間違った計算です。」
と言ったんですが、全然耳を貸さないで、3回とも同じコンサルタントに
依頼し、同じ計算をさせ3500万支払った。
同じ失敗を3回繰り返し、全部パー、全然役に立っていません。
私の友人のコンサルタント2人が、
「沖縄の仕事は金になるけどやらない。嘘を書かないとお金を払ってくれない。
嘘を書くのは良心に反するからやらないよ。」と言っています。
これは業界で有名になってることらしいです。
ですから、この際本当に発注者側の立場になってくれるコンサルタントを
まず捜すことです。
今のコンサルタントについてはご破算にして、まともな業者と付き合う。
そして知恵を借りることをお勧めします。
今日は時間的に迫ってるものですから、きつい言い方をしたかもしれません
がお許し下さい。
後は私が分かることについては、質問にお答えしたいと思います。
ゴミについては日本の中を捜しますと、私より詳しい人が結構たくさん
おります。
例えば、保証金制度の事について言えば、京都の長尾さんがいらっしゃるし、
元の沼津市長の井手さん。
また、沖縄の中では、名護市が、独特の分別をかなり早くからやりまして、
焼却炉の予算を相当節約した。
その時中心になったのが今の名護の助役になった岸本さんです。
そういう現場でも詳しい人が沖縄にも何人かいらっしゃいます。
ですから今日ここで私がお答え出来ることは全部では無いですが、
分かる範囲でお答えします。
< 質 疑 応 答 >
Q :保証金制度についてなんですが、昔は缶は無くて、瓶については有料で
回収していたように記憶していますが、あれはいつ頃無くなったのですか?
A :今でも一升瓶は、地方によって10〜20 円位の間で保証金がついてる
ことがあります。
ビール瓶についても、場所によってお金が動くこともありますが、缶が増えて
来たのがここ数年の特徴だと思います。
缶は自動販売機で温めたり、冷やしたりするのに便利だし、軽いので持ち運び
しやすいというのも事実です。
しかし一方で、日本中には500 万台の自動販売機があるそうですが、そのうち
の半分はタバコの自動販売機です。
これは大して電気を食わないのですが、残りの250 万台の缶類は、加熱、冷却
のために電気を食います。
その電力が全国で200 万kw、つまり原発2台分に相当するそうです。
出雲市長は、自動販売機を全て市から追放しようという提案を最近したはずで、
話題になってます。
自動販売機は便利であるけれど、ゴミを作ってる機械でもある。
それも原子力のゴミも作ってるということになる。
これがここ数年の状況です。
Q :便利なものができたので、昔からのリサイクルが無くなってきた、
ということですね。
A :そうですね。でもガラスの場合は、割れたものでも価値があるそうです。
生のソーダ灰とか石灰とかを加熱する時は、2000℃近くまで熱をかけないと
溶けないそうですが、屑ガラスがあると、それが溶剤の役目をして、
7 〜800 ℃で溶ける。かかる熱量がぐっと少なくてすむ。
産業廃棄物としてのガラス屑も価値があって、ちゃんと引き取られていくん
です。
今沖縄では、本島の中部にそういう集積所がありまして、そこまで持って
行けばガラス瓶の業者が持って行くという所まできている。
しかし、各市町村がそこへ分別して持って行かないものですから、
せっかくの設備が活かされていないのが現状です。
沖縄ではまだまだリサイクルは始まったばかりで、熱心な市町村もあります
が、まだ少数にとどまっています。
Q :石垣は美しい所ですが、中でも特に美しい川平に下水処理場ができる、
という話を聞きましたが・・・・?
A :もう、実はできちゃったんです。
川平に赤瓦の立派な下水処理場ができまして、今日も見てきました。
建設省からも係長が来てました。
この処理場は、「オキシデーションディッチ(酸化溝法)」といって、
オランダから導入した技術で作ったんです。
実は私は25年前にオランダに半年近く留学して、あの処理法の発明者から
直接手を取って運転法を教えてもらった最後の弟子なんです。
丁度私が行ったその年に、先生は引退なさりました。
その時私が教わった「酸化溝法」というのは、殆ど素堀の溝で野天にただ、
池みたいに掘ってある非常に安い施設だった。
「多分これはヨーロッパ中で最も安い施設の一つだよ。」と、
その発明者は私に教えてくれた。
ところが今日見に行きましたら、7億円の事業の内の4億円をかけた
処理場で、確か300 t位の排水を処理するので、1t当たりの設備費が
140 〜150 万という設備なんです。
大体普通の下水処理場が「随分高いなあ・・・・」 と私は思うんですが、
それでも50万円位です。
それが140 〜150 万・・・ 。
もし私が設計したら10万ちょっと位だと思います。
つまり素堀りの池で済むんですから、それ位で済むはずです。
ところが随分と高いものを作っちゃった。
実際見てて涙が出る位やり切れなかったですねぇ・・・。
御殿みたいなものを作ったんです。
観光客が多く来て、人目につくから御殿みたいに作らなきゃいかん、
というのなら分かりますけど、墓場の先の誰も人が来ないような所に、
御殿みたいな処理場を作った。
それも「非常に簡単で、安くて、確実に動く」という事が取り柄のものを
べらぼうに高く、多分日本最高級レベルで作ってしまった。
非常に皮肉な話です。これは石垣市民の税金で維持管理しなければならない。
あと、まだ4カ所位作るという話を今日、下水道課ではしていました。
だから、できればここで目を覚まして、例えば、日本で一番安くて、確実な
処理場でも作ってくれたらいいのに・・・というのが私のお願いです。
「こんな物を作るために勉強したんじゃなかった。」いうのが、25年前に
私が学んだものを川平で見たときの私の感想です。
そして「非常に高いものを作りました。」というのがこの処理場に対する
私の答えです。あれは失敗だと思います。
もちろん別の考えの人もいるかと思います。
きれいなものを作ったんだから、これは自慢でき、人も呼べる、という
考えも、多分あるだろうな、とは思います。
しかし下水処理の技術者としては、あれは失敗です。
車を例えにすれば、軽自動車でも、金塗りのロールスロイスでも、
どちらも用は足りる。
だが、どっちを使うかは、考え方次第です。
用が足りればいいのか、何がなんでも世界で一番高いものを使いたいのか、
人によって様々かもしれません。
ただ私は、沖縄の石垣市民は、日本で一番高い下水処理場を自慢する立場
ではないだろう、と思います。
Q :自分で写真を撮ってるのですが、現像液など、処理廃液が出ます。
それをそのまま家庭排水に流していいのか、聞きたいんです。
コダックの本社に聞いたら、「ダメ」と言われた。
ただ、その回答した人が個人の意見として、「10倍に希釈したら大丈夫
じゃないか。」ということだった。
また、各市町村によって異なる条例を持っているので、それを聞いてみる
ように言われたので、市の環境衛生課に問い合わせたら、「今のところ
調査しても基準値以上の結果が出たことが無いので、そのまま流して
いる。」
つまり理屈としては、希釈して流している、ということでした。
アメリカのコダックの処理方法の資料を見ると、一カ月100 ガロン
(1ガロン=3,8l )以上の廃液を流している小規模現像所においての
処理方法として「活性汚泥法」といって、土を入れたドラム缶を4つ位
用意して、それに廃液を流して行き、連続してその4つを通過させ、
最後に土中に流す方法が出ていました。
私は個人なのでどうしたらいいですか?
A :東京のような大都市は、専門に集める業者がいて、カラーとモノクロ
があり、モノクロの方は、銀の回収資源としてかなり大きい商売になって
います。
カラーの方は、そんなに毒が入ってるものではないので、個人の分なら念
を入れるとすれば、ドラム缶七分目に細かい砂をいれて、そこに薬液を
入れると、だんだん流れる落ちるうちに中で微生物が分解するだろうと
思います。
底のほうは少し穴をあけて、砂が落ちないよう網を中に入れておけばいい
でしょう。
但し、多量になると大ごとです。
東ドイツのフィルムメーカー、オルゴは、銀を含んだ非常に有害な廃液を
近くの池にぶち込んだので、犬が落ちるとコロリと死ぬような毒池になっ
てしまった。
ドイツを統一してみたら、このような猛毒廃棄物の溜まった池があちこち
にたくさん見つかって、統一ドイツはその処理のために、日本円で何千億
という金をかけなきゃいけない。
皮肉なのは、西ドイツは東ドイツに、処理に困る有毒廃棄物をお金を付け
てどんどん引き取らせていた。
そして東ドイツは、そういうものを西ドイツとの境界に近い穴に埋め込んだ。
統一してみたら国の真ん中にそんな穴がたくさん見つかって大慌てしてる
わけです。
何千億という額ですから、そのせいでドイツ経済はヨーロッパの機関車の
役割を果たせないのではないか、という位深刻な産業廃棄物の問題を抱えて
います。
Q :沖縄は所得が全国平均の7割なので、もう少し稼がねば、という話
をよく聞きます。
私は7割でもいいと思いますが、ただ、もし大型の公共工事が無くなった
ら土木業者はどうしたらいいと思いますか?
沖縄、石垣で大型公共工事が無くても食べて行ける名案などありますか?
A :私は本職は下水道の土木屋ですから、つくづく考えるのですが、
さしあたって小型の公共工事を工夫する手はいろいろあります。
下水道について言うと、今はゼネコンが半分の工事を持って行ってしまう構造
になっています。
地元の業者が手の付けられない大きな工事が多いんです。
しかし下水道も規模を小さくすれば地元の業者だけで殆どの工事は出来る。
川平にしても、あれではゼネコンでないと出来ない。
もし私が池を作ったら、十分の一の費用でしろうとでも出来るような池を
作ります。
そこそこ、それで地元の業者は食えるだろう。
その間に次の手を考える。
次の手の一つとして、例えば議員の視察見学がここに集まるようなアイデア
をいろいろ考える、というような事です。
どうやって自然だけではなく、それを利用した観光資源を作るか、むしろ
社会の中に人が見にくるような観光資源をどうやって作るか?
それが例えば、保証金制度だったり、塩化ビニール製品への課税だったり、
あるいは下水処理にしても、日本でここにしかない非常に簡単な施設など、
ここならではの物を考える。
与那国が少し手をかけてますが、最後にウナギが汚物を食べる処理場という
ものもあります。
私が世界中を歩いて回って、一番優れた下水処理を実行していたのは、
カルカッタでした。
カルカッタといえば世界で最も汚く、非衛生的で、金の無い都市の筈です。
でもそれ故、知恵を絞って考え出したんでしょうが、魚で完全に下水を処理し、
その魚を町で売って何万人かが飯を食っている。
処理した後の水は、まだ肥料分がありますから、それを畑に撒いて野菜を作り、
これが又商売になっている。
下水処理が産業になってる町というのがカルカッタです。
実は下水処理で何に一番お金がかかるかというと、水と泥を分けた時の
泥の始末なんです。
そのために薬品を入れ、機械で漉し、石油をかけて燃やし、というふうに
お金をかける訳です。
これをもしウナギがやってくれるとなれば、最後の収穫は人に任せればいい。
つまり、処理場を3日間だけ市民に解放し、つかみ取りで持ってってもらえば、
解決する訳です。
では、どうやってそんなのんびりと間の抜けた処理場が出来うるかという
事ですが、おそらく石垣もこれから休耕田を作れ、と上から指示が来て、
天然のダムを潰す事になる訳ですが、そうしたら市役所で田圃を借りて、
そこへ下水を入れて魚を飼うと、結構魚は太ります。
ウナギはほかの魚を食べるのでグッピーでもいれておくとウナギの餌に
なります。
5年位ある田圃を借りて下水を入れて魚を飼うと当然土が肥えてきます。
そうしたら元の持ち主に田圃を返し、隣の田圃を借りる。
つまり処理場を5年毎に持って回る。
もちろん借り賃はそこそこ農民に支払います。
そうすれば多分「借りてくれ」という人が出て来ます。
下水処理が産業になれば、これも視察に来ます。
そういう工夫をいろいろとやればいい。
沖縄は観光地としての条件はいいし、そこにもう一つ、行って勉強になる、
という物があれば人が来るだろう。
ただ遊んで楽しいだけなら、よそにもここより安くて楽しい所はいっぱいある。
でも、更に勉強になるものがあれば、そういうものをここに作れば、
ここに来る訳です。
沖縄本島については、「勝手にしろ」と私は言ってるんです。
100 万人近い人間が軍事基地の隙間に住んでるなんて難しい事に答えられない。
私の頭では無理です。
大田先生や頭のいい人が考えたらいい。
私が出来ることは、渡嘉敷や石垣位の大きさならなんとか答えが見つかります
が、それより大きい所は、そっちでやってくれ、と言うのが正直なところです。
そうなりますと、今話したような物を作るには、土木業者はそれなりに
勉強しなければならない。
その実例が今までに一つだけあります。
かつてアスベストを使った建築があって、これが発癌性があって大問題に
なりました。
アスベストの入った建築を取り壊しできるのは、沖縄に「たま建設」という
土建屋が一件あるだけで、後は日本中どこを探しても無い。
だからアスベスト除去工事にはどうしても、たま建設を呼ばなきゃいけない、
という状況が85年頃ありました。
私が当時働いていた東大の実験室もアスベストを使っていたので、
大騒動になりました。
このように、沖縄にしか無い!というものを作れば、それで食って行ける、
と言うのがこの経験から言えることです。
Q :アスベストは断熱材に使われてると思うんですが、我が家の天井は
断熱材が剥き出しなんです。
そのまま放置しておいて人体に影響は無いんでしょうか?
A :いや、実は大変なんです。
東京都が小学校の断熱材としてアスベストを一時期規格として大量に使った
ので、それを除去するために物凄いお金をかけたはずです。
今でもやってます。
これは、気がついた所では大問題になっていますが、今でも気づかずに
そのままの所もたくさんあるはずです。
私なんかも肺ガンになるリスクは普通の人の10倍位あるはずです。
これは、 その中で仕事をしていたからです。
70 年頃からアスベストの害をいくらか聞いていたので、東大に
「使用をやめてくれ」と言ったのですが、文部省の規格だから、
といって結局強引に使われてしまいました。
そして85年頃になって、大騒動になった。
どの大学もひとつの建物に億単位のお金をかけて除去して取り替えました。
沖縄では比較的早く米軍が気づきました。
それで沖縄しか除去出来る業者がいないんです。
米軍に出入りしている業者は、必要に迫られてその技術を覚えた訳です。
ひょっとすると、石垣ではまだアスベストを使ってるかもしれません。
Q :15年以上前に建てられた家なんですが・・・
A :それだとその心配があります。
当時は安かったから、アスベストを大量に使った。
水道のパイプにも一時使ったことがあって、大問題になり随分お金をかけて
取り替えました。
住み続けるなら取り替えないとまずいですね。
Q :土地改良も赤土問題も行政主導、住民との話し合いを十分せずに
やったための失敗でした。
ゴミ問題もそうならないか不安です。
市は予算を通すために、議会の直前になって、形ばかりの説明会を1回きり
やっただけです。
ゴミのことは、地域住民の問題だけではなく、市民全体の問題だと思います。
市長は市民の理解を深めるよう努力してほしいし、住民と十分話し合いを
もち、この石垣にあった方法を、今までの経緯に縛られず、もう一度初め
から考えてみてほしいと思います。
ぜひ、ゴミの問題は、みんなで考えていい方向に持って行けるように、
皆さんのご協力をお願いします。
Q :焼却場からはどうしてもダイオキシンが出てしまい、そのダイオキシン
は100 %除去することは出来ないと聞いています。
現在、まだ世界の科学者がその安全な除去方法を見つけられずにいるという
のは、本当ですか?
A :はい。
Q :石垣市は、バグフィルターという高性能のフィルターを付けるので、
危険性はごく僅かであると、説明しています。
しかし、世界には約3000の焼却場があり、その三分の二の2000が日本(内地)
に集中しています。
しかも日本の基準は世界のほかの国に比べて10〜100 倍も緩い。
そういった状況の日本の数値と比較して、
「石垣の危険性は僅かなので、ゴミも出るし、処分するためには少々
我慢しなければ・・・」というのが市長の意見です。
しかし、ダイオキシンというのは、胎盤や母乳を通して次の世代に蓄積され
て行くもので、女性は子供に自分の分を受け継ぎ、男性は体に溜まりっぱなし
なので発病しやすい、とダイオキシン専門の科学者が言っています。
毒物でも、少しなら許せるものと、少しでも許せないものがあると思います。
そういう前提のもとで質問ですが、当初、石垣市はゴミの80%を燃やす、
という計画で案を作ったのですが、その後プラスチック類は燃やさない、
ということを決めました。
それはダイオキシンの発生を抑えるうえで大変効果的で歓迎するべき事で
あるし、更に生ゴミの堆肥化もするそうです。
しかし、それに伴ってゴミの量は減り、内容も変わってくる訳です。
又、稼働時間も当初16時間と言っていたのが、ゴミが減ったらその分短時間
で済む、 という説明を受けましたが、 ダイオキシンは、ある一定の温度になる
までの立ち上がりと、 消す時の不安定な状態の時に出やすいとも聞いている
ので、そこも心配です。
焼却炉は中の温度によって形式が変わると聞いていますが、 このようにゴミ
の内容の質と量が変わっても、炉は変更しなくていいのでしょうか?
もう1つの質問は、焼却場が標高24m位の所に建てられ、煙突を立てると
そのてっぺんの高さが85m位になります。
その近隣の部落の蒿田、バラビドーや浄水場は60m位の所にあります。
その差は20m位しかないのですが、市は、「煙突から勢いよく吹き上げ、
上空で薄められるので大丈夫」と言います。
しかし、風の強い日、無い日などいろんな条件下で実際に試した訳ではなく、
コンピューターの計算だけでそう言ってるのですが、本当に大丈夫なので
しょうか?
A :当然ゴミの量と質が変われば炉の構造も変わって来ます。
一般にダイオキシンというのは温度が低い程、出てくるということが
分かっています。
去年の11月、京都で「ダイオキシン会議」が開かれ、各国のダイオキシンの
基準値つまり警戒すべき値ですが、これを発表したところ日本が100 で、
ヨーロッパが1だった。
アメリカはもう1桁位下だった。
我々も頭を抱えた、というか、日本はこんなにあまいのかとびっくりした、
ということがあります。
それから、煙を吹き上げるから大丈夫、というのは全く計算上のこと
です。
宮沢賢治の童話の「グスコーブドリの伝記」の中に、煙突から出る煙は
どういうふうに動くか、という話があってあれこれ説明しますが、
実際には、気候条件によって、時には真下に落ちることさえあるんです。
ですから計算で「こう上がるので大丈夫だ」というのは言えない、
というか「だから安全です」という議論は出来ないし、しない方がいい、
という事は言えます。
そのへんをコンサルタントがどれだけ誠実に仕事をしているか、という
尺度とお考えください。
私が新石垣空港の問題のとき、県が依頼した「新日本気象海洋」の報告書
を調べた時には、コンピューターで計算した所は全部ごまかしでした。
よくある事です。
常識で考えたらすぐ分かることをごまかすために、わざわざ難しい式を
使ってコンピューターで計算する、というのはよく使われる手法なんです。
ですからコンピューターでやった、と言った時には「ごまかした」とお考え
ください。
Q :「焼却炉」という道しか無いのか?
もう1つは、焼却炉を稼働させたうえで改善を加えて行く、という方法は
無いのか?
そういった方法をとってる地域があるかどうか知りたい。
A :1つはサンドイッチ方式でずっと全部埋め立てていくやり方がある。
しかし今の現状を見ると、地下水汚染を出来るだけ止めるために、
少なくとも管理型方式と言われている程度の対策をしなければならない
とすると、やっぱり結構お金がかかると思います。
しかも、どんどん空間は減ってきますから使える年数は限られている。
多分どれかひとつだけに頼る、という正解は無いと思います。
いくつかの方法を組み合わせることになるだろう、というのが今の判断です。
どの組み合わせが石垣にいいか、というのは、現実のゴミの質と現場の経験
を組み合わせて考えなきゃなりません。
だから「全県ゴミ屋の会議」や「全国ゴミ屋の会議」を開いて、石垣の現在
のゴミを市民も参加してみんなで検討して答えを出す、というのが多分一番
早い道だと思うんです。
あと、途中で炉を改造した例が有ります。たしか容量が足りなくなったので、
新しいものをいきなり買うか、それとも既存のものを改造するか、
ということで、改造を選び、割合成功した、と聞いたのが千葉県の柏です。
これは但し非常に皮肉な事情が有りました。
というのは、炉をどこへ作るかという時、どこでも地元ともめるものです。
それで柏市は、最初利根川のへりに作った。
この周辺の部落が反対した際に、市が約束したのは、
「この次作る時は市の南側に作る」という事だった。
大型炉というのは買ってから最低17〜25 年位もたなきゃいけないのですが、
大体10年を越すと、炉のメーカーがやって来て
「おたくのはそろそろ寿命で能力が足りないでしょう」という話を持ちかけ
ます。
そうすると故障も増えて来てるし、又補助も付くので「得たり」という
感じで次のを13年で買い替える、ということを全国的にやっている。
柏市は、人口40〜50 万人位からなる東京の通勤圏ですが、次の予定地を
市の一番南のはずれ、市街地から離れた所に決めた。
ところが、そこは確かに柏の南のはずれなんですが、次の町、つまり沼南町
の団地の目の前になるんです。
今度は沼南町の人達が怒りまして、柏の市役所に押しかけて、確か1週間位
市役所を占拠してしまった。
市長も市議会も、みんな逃げてしまって、柏の市役所はカラッポになっ
ちゃったことがある。
そんな大騒動が有りまして、結局新しい候補地を諦めまして、前からある炉
を改造するという事になった。
そういうふうにせっぱ詰まって、寿命が来た、と思われていた炉を改造した
結果、結構長持ちして使っている、という例です。
これは、こういった住民のとても強い抵抗があったから、行政もしぶしぶ
知恵を絞って逃げ口を考えた。
さっきの武蔵野の例と同じです。
運動があったから改造されたのであって、言われた通り作ってたら全然改善
は無かったんです。
【 講師紹介】
宇 井 純 (ういじゅん)
1956年、東京大学工学部応用化学科卒。
65年から東大都市工学科助手。
水俣病の因果関係と世界の水銀汚染の実態を研究。
70 年から公開自主講座、公害原論を開講。世界の公害事例を研究。
排水処理技術の専門家。現在沖縄大学教授。62歳。
主な著書:「公害原論全十巻」「検証ふるさとの水」「欧州の公害を追って」 など多数。
−−−
http://www.asahi-net.or.jp/~sv3a-sitd/env.html
問題残した中城湾南部流域下水道計画の事業説明会
行政内部でも、耐用年数の違いが表面化。さらに県職員も欠席
県と中城、西原、与那原、佐敷の四町村が進めている中城湾南部流域
下水道事業の住民説明会が、十二日の中城村から四町村で行なわれた。
計画の見直し論も出され、合併処理浄化槽との費用比較の基礎になる
「合併」の耐用年数が焦点になった。
しかし、その耐用年数で厚生省は三十ー四十年とするが、県下水道課は
十五年で試算。
県生活衛生課は三十年以上と食い違いが表面化。
さらに、西原町の説明会で県生活衛生課が欠席し、参加者から試算に対する
疑問や説明会への不満も出されるなど、問題の多い説明会となった。
中城湾南部流域下水道計画の住民説明会は、都市計画決定の手続きの一環。
計画に関して、同問題を考える会(代表世話人・与那嶺義雄氏)が再検討
を要求。
近年、注目されているトイレと台所などの汚水を一緒に処理する合併処理
浄化槽で、整備した場合を比較する声もあったことから、説明会には浄化槽
を担当する県生活衛生課も同席。
事業説明のほか「合併」と「流域下水道」の費用などを具体的に説明
していた。
説明会で県下水道課は「建設省のマニュアル」に準拠して「合併」の
耐用年数を十五年、下水道の耐用年数を三十九年と説明。
それをもとに「合併」で整備した方が、建設費で一・七倍、維持費で
一・六倍高いとして「流域下水道」が有利と説明した。
しかし、佐敷町の説明会で、町議の瀬底正人氏が
「合併を担当する厚生省は、通達で『恒久的施設』としているが」と
県生活衛生課へ確認を求めた。
これに対し同課は「材質によって色々ある。通達の趣旨については、
厚生省に確認したい」と県下水道課と異なる説明した。
しかし、合併処理浄化槽などを推進する県生活衛生課が現在、市町村など
へ事業説明する時、使用しているテキストでは「三十年以上」と解説。
県生活衛生課は「具体的に何年か、という数字を出すのは難しい。
ただ、私たちの業務の中では、このテキストを使って説明している」と、
業務では三十年以上と説明していることを明らかにする。
「合併」の耐用年数は建設費比較の試算のもととなった重要な数字。
県下水道課は十五年で試算して、「流域下水道」が有利だと断定。
しかし「合併」を担当する厚生省などの耐用年数(三十年から四十年)
に従うと、耐用年数は二倍以上に伸び、「合併」で整備した方が安くなる。
県下水道課は「合併」の費用を高めに試算して比較し、計画を進めて
いたことになる。
最後の説明会となった西原町では、県生活衛生課の職員が欠席。
会場から「三町村では参加していた生活衛生課が、西原町だけ欠席するのは
不公平。こんな説明会でなりたつのか。佐敷町で耐用年数が問題になった
のだから、生活衛生課も出席して説明すべきだった」と追及。
県下水道課は「予算関係の急な仕事が入ったのが欠席の理由。
下水道事業の説明会であり、生活衛生課が欠席しても問題ない」と
説明会を続けた。
また「なぜ、下水道課は合併を担当する厚生省と違う耐用数字で説明
するのか。都合のいい数字を使っているといわれても仕方がない」と、
求める声も出た。
下水道課は「都合のいい数字ではなく、あくまでも建設省のマニュアル
に従った」と説明を繰り返した。
考える会のメンバーは「費用が逆転する大事な数字が、県内部で違う
のは問題。責任を持って浄化槽行政を担う担当者に、説明させるべきだ」
という。
住民へ説明する資料の基礎となる数字が、行政内部でも食い違い、
しかも「合併」担当職員不在のままで行なわれた説明会は、不信感を残す
結果になった。
95.12/24(沖縄タイムス)
<計画の周辺ー中城湾南部流域下水道>
(1)
県の中城湾南部流域下水道事業が、間もなく動き出す。
二十年をかけ西原町や与那原町など四町村を網羅。
年度内にも事業認可を受ける予定だ。
一方で、完成までの期間が長く費用が膨大になると、別の方法を検討すべき
との声も出ている。計画の周囲を見た。
◇ ◇ ◇
六月二日夜、与那原町の社会福祉センターで、県が進める中城湾南部流域
下水道の問題を考える勉強会が開かれた。
計画の対象区域となる中城村、西原町、与那原町、佐敷町の議員や町民が
参加し、講師は下水道問題に詳しい宇井純沖大教授。
「計画自体がよく分からない。町村の負担の大きいこれほど、
長期の大型計画を進めていのか」というのが、参加者の問題意識だった。
宇井教授が世話人を務める沖縄環境フォーラムは九四年十一月、
「(中城湾南部流域下水道)は規模が過大であり、建設、運転に巨額の
費用を要し、将来にわたり財政を圧迫するだけでなく、処理水の再利用
も困難である」として、計画を進める県に見直しを提案。
中小規模の下水道と合併浄化槽の組み合わせの検討を要請していた。
同フォーラムは今年三月二十五日、県土木建築部のメンバーと意見交換
も行っている。
下水道が整備されていない四町村。
早く下水道を整備し、生活雑排水の垂れ流しを止め小川や海をきれいしよう
―という声は大きい。
「下水を整備するのはいいこと。費用は、環境保全のための必要なコスト」
という常識的な見方。
一方で、汚水処理施設を整備する必要性では共通しつつも、
「二十年も整備されるまで、垂れ流してのままでいいのか。
費用がかかり過ぎる。外に方法はないか」という疑問とが錯そう。
問題は分かりにくい。
勉強会は事業が動き出す前に「計画見直し」を提起する側の宇井教授
の意見を直接聞くのが目的。
宇井教授は
「下水道では規模が大きくなればなるほど不経済になる。
全国的には二十年以上も前から、流域下水道や大規模の下水道の問題
が出ている」と紹介する。
「将来の大きな数字を見越して、投資するために経済効率が下がる。
規模が大きいほど、維持管理にも莫大な資金が必要。
事業費は膨れ上がり完成するまでに当初計画を大幅に上回り行き詰まる」。
水の循環からも、汚水は発生源の近くで処理するのが大事と、計画の
問題を指摘する。
中城湾南部流域下水道はどうか。
◇ ◇ ◇
中城湾南部流域下水道 県が主体となって整備し、二十年後の
二〇一五年に完成予定。
中城村、西原町、与那原町、佐敷町の四町村の一五九八・五・が処理区域で、
計画人口は九万四千四百人(完成時の推定)。
総事業費は二億円。支線は町村が整備する。
終末処理場は西原町内に建設が予定されている。
(2)
問題が提起されている「中城湾南部流域下水道事業」の概要を見てみよう。
中城村、西原町、与那原町、佐敷町の四町村の一五九八・五・をカバーする
中城湾南部流域下水道(西原処理区)の事業主体は県。
この計画の下に、四町村が事業主体となる各町村の「流域関連公共下水道」の
計画がある。
「流域下水道事業」で県が幹線と終末処理場を建設・管理し、各町村は地域
の管渠(枝線)など面整備を行ない、県の幹線・終末処理場を利用する
システムだ。
県下水道課は「個別で処理場を建設し維持するより、市町村には負担が少ない」
と説明する。
県内には、本島中南部西海岸地域の那覇市など十市町村を対象にした
中部流域下水道(那覇処理区、伊佐浜処理区)と、金武湾・中城湾に臨む
具志川市など五町村の中城湾流域下水道(具志川処理区)がある。
そして、計画中の中城湾南部流域下水道(西原処理区)。
東海岸二カ所、西海岸一カ所で流域下水道が整備がされている。
この流域下水道には更に上位計画がある。一九七〇年の下水道法の改正で
「流域別下水道整備総合計画」の事項が新設。
都道府県は、下水道の整備によって水質環境基準を達成し維持するために、
総合計画を策定することになった。
沖縄県では一九七七年に「金武湾・中城湾流域下水道整備総合計画」を策定
(未承認)した。
これが中城湾南部流域下水道の上位計画。流域のその下には「関連公共下水道」
が位置づけられ、連動している。
県水道課によると、中城湾南部流域下水道は今年度内に事業認可を受け、
完成は二十年後の二〇一五年。
処理面積は中城村、西原町、与那原町、佐敷町の四町村で一五九八・五m2。
処理人口は約九万四千四百人(二〇一五年)。
汚水量は一日当たり、四万七千四百五十四立方m3となる想定で計画がなされ
ている。
県が整備・管理するのは、幹線一二・五・と処理能力四万七千五百立方
m3/日の終末処理場一カ所(西原町内の埋め立て地)、中継ポンプ二カ所
(中城、佐敷)。
事業費が二百億円。
うち国の補助が百四十四億円、県が二十八億円、残り二十八億円を四町村が
汚水量に応じて建設負担金を支払う。
これが県が事業主体となる部分だ。
町村は県の整備と連係し各自の「流域関連公共下水道」を整備する必要が
あり、これは四町村の独自の事業となる。
◇ ◇ ◇
流域下水道
二つ以上の市町村の区域における下水を排除し、かつ処理するために
都道府県が設置・管理する下水道で終末処理場を持つものをいう。
流域下水道に接続する目的で市町村が設置・管理し、終末処理場を持たない
下水道を流域関連公共下水道という。
(3)
中城湾南部流域下水道が可動するには、連係して計画されている四町村の
「流域関連公共下水道」の整備が必要だ。
各「流域関連公共下水道」は、県の設置する幹線と、家庭の排水設備
(個人負担)を結ぶ範囲までの管渠を整備する。
流域下水道では
家庭排水設備(個人負担)↓市町村の管きょ↓幹線(県)↓終末処理場
(県)という連係で汚水を送り、処理していく。
「流域関連公共下水道」を与那原町を例にとってみよう。
県内の下水道利用可能人口が、六十一万七千三百四十三人で、普及率は
四八・七パーセント(「下水道のあらまし」九三年度末現在)。
その中で、与那原町の下水道は全くの手つかず状態。
町内では生活雑排水が側溝や小川を通って海へ流れ込む。
海岸の甦りを願って、下水道整備の声も以前から上がっている。
西原町境から、佐敷町境まで、与那原町域から海岸へ注ぐ排水溝は
三十五カ所。
直径三十・程度の管を含めると、四十五カ所を数える。
生活雑排水は下水や小川を通って、四十五カ所から中城湾に流れ込む。
かつての小川に管渠を加えた数が、海岸へ流れ込む排水溝の数だ。
どす黒くにごり、悪臭を漂わせている。
九四年三月に与那原町は、「与那原町公共下水道事業基本計画」を
まとめた。
完成は二〇一五年。
与那原町内は埋め立て計画もあることから、二十年後の人口を二万八千百人
を想定、処理区域は二百九十m2。
汚水量を一万三千七百六十九立方m3/日として、計画を策定した。
町がつくる管渠は六万六百七十一m。
事業費六十一億七百万(雨水分は別)。
以上は与那原町が、終末処理場のある流域下水道へ接続するため、独自に
整備する部分となる。
県事業の流域下水道の建設負担金と、独自の関連公共下水道の建設金
の合計が、流域下水道のために与那原町が負担する金額だ。
流域下水道の建設負担金約八億円と、関連公共下水道の二十四億四千二百万円
(国補助以外の負担)の計三十二億四千二百万円余(以上は試算)が
負担となる。
管渠を張り巡らす費用は、その面積と比例する。
人口密度が高いほど、効率がよくなる。
計画人口でみると、与那原町は一・当たり九十七人。
最も少ない中城村が四十七人、四町村の平均で五十九人。
与那原町は、外の三町村に比べて効率がよい。
ただ、人口は二〇一五年の想定で負担するのは現在の住民だ。
◇ ◇ ◇
公共下水道
主に市街地における下水を排除し、又は処理するために地方公共団体が
管理する下水道。
終末処理場を持ち汚水の処理も行なう「公共下水道」と、終末処理場を
持たずに流域下水道に接続し、汚水を処理してもらう「流域関連公共下水道」
がある。
(4回目)
流域下水道として、先行している中城湾流域下水道(具志川処理区)の
例を見てみよう。
中城湾流域下水道は、具志川市や沖縄市など五町村を対象として、
一九八三に事業着手、八七年七月から供用をスタートした。
全体計画(二〇〇〇年)では、処理面積が三千二十・で、処理人口は
十万九千二百人。
現在(九三年度末)の進ちょく状況は処理面積が四百八十八・で、
人口二万人(「下水道のあらまし」(九三年度末)。
中城湾流域下水道に接続している具志川市。
八四年に流域関連公共下水道として事業に着手、既に十年を越えた。
具志川市下水道課によると、進ちょく状況(九四年度末)は、整備面積は
二百四・(三〇・五%)、汚水管四十二・(二七・六%)、
人口一万二百三十八人(三五・八%)。
しかし、実際に接続して下水道を使っている人は、五千六百二人
(九・六%)。
具志川市水道課によると、関連公共下水道で九四年度まで、投資した額
は六十四億四千五百万円(全体計画二百八十四億円)。
人口の約十%に下水道を利用させるために、六十四億円余を投資
(流域の建設負担金は別)した。
しかも、十年で一割程度しか整備が進んでいない。
具志川市に外の四町村もあわせた数字を見てみよう。
「下水道のあらまし(九三年度末)」によると、中城湾流域下水道
(具志川処理区)の利用可能人口は二万人(十八%)で、実際に利用して
いる人は九千九百二十五人(七・七%)と利用状況はさらに低率だ。
中城湾流域下水道の対象となる北中城村、与那城町、勝連町の三町村は
利用可能人口はゼロ。
勝連町は八九年に事業認可を受け、三十七・の整備をしているが利用できる
人はゼロ。
与那城町も八九年の事業認可、五十二・の整備で利用できる人はゼロ。
北中城村は九二年に事業認可を受けたが、まだ整備が進まない
(いずれも九三年度末)。
事業認可から十年ほどが経過したが、ほとんど整備が進んでいない。
中城湾流域事業の事業額を見ると、現在まで百五十六億六千万円余
(「沖縄の下水道」)の投資。
利用している人は、九千九百二十五人。
約一万人のために百五十六億円が投資された計算だ。
進まない整備と、整備されても住民が接続しないなど課題は多い。
「負担は大きいが、後半になると整備の効率もよくなる」と具志川市水道課。
現在、見直しの動きはないという。
◇ ◇ ◇
排水設備
家庭などから、公共下水道に汚水を流入させる排水管などの設備。
下水道法(十条)は、公共下水道の供用が開始された場合、排水設備
の設置を義務付けている。
費用が高い上に下水道を利用すると、使用料を支払うことになり、
下水道が整備されても利用しない例も多い。
(5回)
流域下水道など広域下水道の問題の一つとして、整備期間の長さが指摘
される。
中城湾流域下水道(具志川処理区)のように十年で一割程度しか、
下水道が整備・利用されない。
整備が長期化することからは・設備の耐用年数(補修)の問題・その期間の
汚水の垂れ流し・整備の早い地域と遅い地域の不公平さ―と、財政や環境
などさまざまな面から問題が出てくる。
広い地域を整備するため時間がかかる一方で、建設済み施設の
メンテナンスが必要だ。
県土木建築部が出す「沖縄県下水道調査研究報告書」(九三年三月)で、
下水管の腐食に関する報告がある。
報告では、十数年で腐食が出始めている事例が紹介され、汚水管を腐食に
強い材質に変える必要性を説く。
知花寛さんらの報告によると、一九八五年十二月と、八六年一月の二回に
わたって、中南部流域下水道の幹線(直径四五〇・)の損壊で道路が陥没
した。
また、八八年四月には先の陥没の近くで陥没がおこり、幹線を六十mに
わたって取り替えた。
一九六九年の建設から十八年での腐敗だ。
伊佐浜処理区幹線では九カ所で腐食があったという。
また、同報告書の西浜完治さんらの報告(八九年度)によると、小規模の
食品製造業の排水によっても、那覇市と沖縄市の汚水管で腐食が見つかって
いる。
名護市内では、外にも病院からの排水で公共下水道の汚水管が百二十mに
わたって管底が溶解している。
名護市下水道課によると、外にも腐食による管渠の補修もあるという。
単独の公共下水道の場合でも補修の必要性は同じ。
名護市は一九七四年に事業着手、七九年から供用をスタート。
処理人口は七四%(「下水道のあらまし」九三年度末)。
同市では数年前から、建設と並行して補修費も支出している。
同市下水道課では「流域の場合は分からないが、公共下水道の場合でも、
市単独で処理場を持つのは負担が大きい。
また、既に管渠の補修の必要も出てきて、建設だけでなく維持費の負担も
大きい」という。
先の知花さんらの報告は「腐食の原因は硫化水素起源の硫酸」と指摘。
そして・土砂の堆積を防ぐためポンプを高速運転など
・管渠の材質を耐硫酸性の物へ変える・
全管渠での変更が難しければ腐食のおこり易い場所だけでも変える
ーの対策を提言。
「今後、腐食による陥没事故の多発が考えられるので、管渠の腐食対策
をさらに拡充していく必要がある」
と指摘する。
工場や事業所、家庭とさまざまな汚水を一緒に集めて処理する流域などの
下水道。
様々な汚水が混じり管渠などの腐食などが起こり易い。
建設そして、補修や取り替えと膨れる維持費用。
規模の応じて維持費もかかる。
しかし動きだしたら、止められない。
巨大システムのジレンマがある。
(6)
佐敷町議会経済建設常任委員会は九三年十月、静岡県内の三市二町一村で
つくる「西遠流域下水道」で下水道を整備する舞坂町を視察、財政や整備
状況を調査した。
舞坂町は人口一万一千六百九十八人(九三年四月)、計画処理区域が
二八六m2と佐敷町とほとんど同じ規模。
佐敷町議会の目的は「同規模自治体で果たして、経済的にやっていけて
いるだろうか」だった。
佐敷町議会同委員会の報告書によると、同町の関連公共下水道は一九八〇
年に事業着手して、当初の総事業費は百八億円(雨水含む)。
処理人口は一万一千百九十八人で普及率九六%で、洗浄化(接続)率は
五二・二%(九二年度末)。
同町下水道課によると、その後の九三年度末で、普及率九七%で接続率も
七五・一%という状況。
ほぼ整備を終えた段階。
同町下水道課によると、最終的には百十五億円余かかる見通し。
舞坂町では、管きょの整備は進んだが洗浄化率は低かった。
接続するための個人負担分は、一件当たり五十一万から五十七万円余。
町では特別な融資制度なども設けるなど、洗浄化率を高めるの工夫をする。
報告書の段階で五二・二%。
一方で、町が県に支払う流域下水道の使用料は、一・当たり七十八円で、
町は町民から一・当たり六十三円を徴収。
使用料だけでも、年間で二千五百万円(九四年度)の赤字だ。
観光地としての浜中湖を抱える舞坂町。
近隣の三町で競艇場を経営し、年間十五億円ほどの収益がある。
予算規模は一般会計で五十億円余。
人口や面積がほぼ同じ佐敷町が三十億円余なのに対して、財源の豊かな
町だ。
観光や生活の場としての浜中湖を浄化するという意識も高いという。
また、舞坂町は市街地が集中していて、処理地区二百八十六・のうち、
百九十七・に人口の九六%ほどが住んでいる。
佐敷町でいうと、新開地区のような部分に人口の九割ほどが住んでいて、
下水道整備にとって有利だった。
議会の報告書では・浜中湖が漁業観光の中心であること・市街地に人口が
集中・財政の豊さーなどが、下水道を維持できる理由だと分析する。
佐敷町議会の一人として、舞坂町を調査した平田達雄議員は
「佐敷町で同じことをすれば、自主財源のない佐敷は財政が破綻する
のは明らか」という。
同規模の人口で財政が一・七倍と豊かな町で、浜中湖の浄化が生活と
密着している舞坂町だからこそ、多額の持ち出しでも下水道を維持できる。
しかし、佐敷町では困難だという。
平田さんは佐敷町で、合併浄化槽の導入を提唱する一人だ。
「下水の問題はゴミと同じ。町民が管理できるシステムを作り、
水辺を取りもどすべきだ。
経済的なメリットもあり、環境への意識も変わる」と計画の見直しを
提言。
町の全町植物園構想と連動した形で、下水道の問題も検討する必要がある
と説く。
(7)
中城湾南部流域下水道事業計画の内容の概要などを見てきたが、幾つか
の問題が浮かび上がってきた。
一方で、汚水垂れ流しで環境が悪化することへの危機感は各地域で共通だ。
ではどうすればいいのか。
汚水処理について、幾つかの提言がある。
沖縄環境フォーラム(宇井純沖大教授ら世話人)は
「中小規模の下水道と、合併浄化槽の組み合わせること、雨水利用
を考えること」(九四年の同フゥーラムの県への申し入れ)と、
提案している。
全国の下水道問題に取り組んできた中西準子教授(横浜国立大学)は、
人口密度に応じた三つの下水道を提唱する。
市街地などは公共下水道、百や二百戸の集落は集落下水道、そして人口密度
の低い地域は合併処理浄化槽とよばれる施設で処理する個人下水道の三つ
(「水の環境戦略」)。
「小規模に作くれば作るほど、水が近いところに戻り、水循環が可能になる」
(同書)と、小規模下水道のメリットを説く。
合併処理浄化槽には、導入上に難点があった。
戦後制定された建築基準法(三一条)は、し尿の処理だけを行なう
単独浄化槽とするとした。
公共下水道のない地域でトイレを水洗化した場合は、し尿のみを単独浄化槽
で処理し、生活雑排水は垂れ流すという現象が起きた。
生活雑排水の垂れ流しを止めるため合併処理浄化槽を設置しても、
公共下水道が整備されれば、汚水管は下水道へ接続する必要がある。
戦後間もない頃に、建築基準法が単独浄化槽を選択したことで、
問題が複雑になった。
最近では、下水道整備の遅れや環境面への配慮から、合併処理浄化槽が
注目され始めている。
フォーラムの提案も、これらの動きを踏まえた上だ。
一九八七年に厚生省は、合併処理浄化槽への補助
(合併処理浄化槽設置整備事業)を一億円の予算で開始した。
補助は、下水道事業認可地域以外と、整備に七年以上かかる地域が対象。
厚生省生活衛生局水道環境部環境整備課浄化槽対策室対策室によると、
九五年度予算は百二十六億円。更に九四年度から、
「特定地域生活排水処理事業」として補助内容を拡大した事業を
スタートさせ、両方合わせて全国で一千九百三十九市町村(九五年度)
が利用しているという。
同対策室は「補助条件は厳しいが、反応はいい。
さらに内容を拡充させたい」と話す。
全国的には、公共下水道や流域下水道を止め、小規模下水道を取り入れ
ている市町村もある。
整備の遅れによる環境破壊などの現状が、より地域にあった方式を
模索させている。
◇ ◇ ◇
合併処理浄化槽
浄化槽には、し尿のみを処理する単独処理浄化槽と、
し尿と生活雑排水を併せて処理する合併処理浄化槽がある。
合併処理浄化槽は厚生省が管轄し、下水道認可計画区域以外で、
生活排水対策が必要な地域に設置される。
(8)
「費用と時間がかかり過ぎる」と、計画中の公共下水道を見直して、
町全域を合併処理浄化槽で整備することを始めた自治体がある。
秋田県の二ツ井町(ふたついまち)。昨年から公共下水道の見直しを検討。
二〇一四年までの二十年かけて整備する公共下水道計画と、合併処理浄化槽
で整備した場合の事業費などを比較し、合併処理浄化槽での整備を決めた。
九五年度から合併浄化槽への補助を始めている。
同町生活環境課によると、公共下水道の対象人口は七千人で三百十m2。
事業費は下水道百十八億余円で町支出金が二十七億円余。
合併浄化槽の場合は二十億円で町支出が八億円。
建設時の接続のための負担金は、公共下水道が六十六万五千円に対し、
合併処理浄化槽(五から十人用)の設置費が五十三万九千円。
同町では、この比較で公共下水道を止め、その費用を合併処理浄化槽の
補助への上乗せとした。
今年度の予算は六千七百万円で四十七基。来年度は百十基を予定する。
五人の合併浄化槽の場合で三十三万九千円(国・県・町でそれぞれ三分
の一負担)、更に町独自で二十万と三十万の二パターンで上乗せ補助を
行なう。
同町生活環境課では「現在のところ申し込みは順調。問題は出ていない」
という。
それぞれの家庭で、生活雑排水とし尿とを併せて処理する合併浄化槽。
県生活衛生課によると、年間の維持・管理費は一基で五から六万円、
月にすると四、五千円程度。
スペースの問題や管理が個人に任されているなどの幾つか難点が指摘
されている。
しかし、さまざまなメリットがある。
整備が短期間で済み、汚水を各地域で処理し、水の循環が出来ることなど。
県内では、合併処理浄化槽への補助はまだまだ低調だ。
現在、合併浄化槽設置事業を行なっているのは、九一年度から始めた名護市、
それに宮古広域一部事務組合、宜野座村、豊見城村など五市町村。
県生活衛生課によると、九五年度までに八十四基に補助がなされた。
来年度から那覇市が事業をスタート、さらに幾つかの自治体が導入を検討
している。いずれにしても始まったばかりだ。
長期事業でほとんど用地買収がいらない、手軽な公共工事としての下水道。
県内でも、一九七二年から累計で下水道関連の事業のために二千九百六十五
億二千百三十四万一千円が投資され、利用率は四二・三%
(「下水道のあらまし」)。
しかし、この投資の恩恵を受けない地域が残る。
中城湾南部流域下水道問題を考える会」の与那嶺義雄さん(西原町議)
や瀬底正人さん(佐敷町議)。
同計画について「この計画で海や川は甦るのか。システムは、
維持できるのか。
費用は負担できるか」と疑問を出す。
地域のためにも計画のためにも、各地の先例に学ぶ必要がある。
沖縄タイムスの連載(95年7月)
−−−
http://www.pvc.or.jp/news_ind/19-2.html
『大江戸リサイクル事情』から学び取る現代人の生き方
作家 石川 英輔氏
●ついこの間まであった生活
江戸時代の生活というと、何か遠いことのように思われるかもしれません
が、実際は私たちがつい最近までやってきた生活とそんなに違うわけじゃ
ありません。
少なくとも、今の40歳代の人達が子供のころまでは、まだ身近にあった
生活とそう変わりはないのです。
江戸時代の社会における資源・エネルギーの循環構造は太陽エネルギーを
基本としていました。
生活に必要な資源エネルギーの95%以上はどんな方法で処分しても最終
的には太陽エネルギーによって元の発生地点に戻っていく、そういう持続
性の高い構造になっています。
つまり、私たちはわずか40年くらい前までは、江戸時代と似たような
「持続可能性の高い生活」を送っていたということ。
この点は本題に入る前に、まず確認しておく必要があると思います。
●江戸時代は「壮大な実験場」
江戸時代の「持続可能性」をいくつかの例で説明してみましょう。
例えば紙。
当時の紙は楮やミツマタを主原料とする和紙です。
これは非常に丈夫なもので、江戸の人々は繰り返し再利用して大切に使っ
ていました。
しかし、資源・エネルギーの循環という点から言えば、再利用などせずに
一度使って燃やしてしまっても一向に構わなかったのです。
なぜなら、紙を燃やしてできる二酸化炭素と水は結局は次の年に楮やミツ
マタが生育するための原料となるに過ぎないからです。
それから、光熱資源。当時の光源の主流である行灯の菜種油も、燃やした
後は二酸化炭素と水に分かれて、来年菜の花畑を作るのに必要な原料とな
るわけで、元を辿れば「去年の太陽エネルギーの賜物」以外の何物でもあ
りません。
これは薪炭についても同様のことが言えます。
従って、江戸時代には資源を消費しても枯渇する心配はなく、環境負荷も
ありませんでした。
当時の人口は3千万人でほぼ一定していますが、この数が「環境に負荷を
与えない技術で日本列島に生きられる人口」を示しているとすれば、
江戸時代とは、今ではもう2度とできない壮大な実験場だったと言うこと
もできるでしょう。
●大リサイクル −薪炭と稲藁
江戸時代というのは基本的に、太陽エネルギーによって半年から1年ほど
で循環する輪の上に人間が乗っていたようなもので、その輪の中で、我々
のご先祖はせっせとリサイクルに励んでいました。
その徹底ぶりたるや日常生活のあらゆる細部にまで及び、今のわたしたち
の感覚からすると無視してもいいくらいのものまで徹底的にリサイクル
されています。
これらを規模的に大中小に分けると、大きなリサイクルの代表と言えるの
が薪と稲藁ではなかったかと思います。
当時の最大のエネルギー源は薪炭でした。
2、30年かけて育った木を切って燃料とすれば、リサイクルできないの
ではないかと思いがちですが、人口が4倍、エネルギー消費が数百倍に
なっている現在の日本でさえ、国土に生えている樹木が1年間に成長する
量を燃やすだけで、総エネルギーの約4分の1になります。
今より樹木が豊かで森林の管理も行き届いていた江戸時代は、いわば利息
のごく一部を使っているような状態でした。
マクロに見るなら、薪炭も完全にリサイクルしていたのです。
一方、稲藁は50%が堆肥、30%が草鞋などの藁製品に利用されました。
その草鞋でさえ、履きつぶした後は集めて肥料にしていたほどで、世界の
稲作国の中でも、藁の品質にまで注目して品種改良を行った国は日本以外
にはないと言われています。
●中小リサイクルの芸術的知恵
中リサイクルの代表は下肥と灰です。
下肥は農家が町家や武家から買い取って全部畑に戻していました。
下肥の需要は非常に多く、物価の安定していた江戸時代に、下肥の価格だけ
が18世紀末に4倍に高騰したという記録が残っています。
灰も紺屋の藍染め用をはじめ、製紙、酒造、絹の精練、家具・建具の汚れ
落としなど様々な用途に使われました。
灰買人が各戸の灰を買って回り、川越など江戸の周辺では灰市が立ちまし
た。
歌舞伎などで聞かれる『かまどの灰まで』という言い方は決して比喩では
なかったわけです。
小リサイクルのほうはまさしく多種多様です。
すぐ思いつくのは紙くず買いですが、そのほかにも蝋燭の流れ買い、
樽買い、棕櫚ホウキやメガネのリサイクル業者など、今からは想像も
つかない商売が存在しました。
生ゴミは貴重品で肥料として使っていたようです。
とにかく、江戸の人々のリサイクルの知恵は殆ど芸術的とさえ言えるほど
で、その徹底ぶりには呆れるほかありません。
●汲み取るべき2つの要素
以上、江戸時代の資源・エネルギーの循環とリサイクルについてざっと
お話ししてみましたが、社会・経済構造が全く違ってしまった今となって
は、その中から現代の私たちの生活に直接役に立つことを見出すのは困難
です。
私たちはもう江戸時代に戻ることはできないし、また、戻らなくてすむ内
は戻る必要もないでしょう。
江戸を考えることで何か汲み取ることのできる要素があるとすれば、
それは次の2点だと私は思います。
ひとつは、江戸時代から現代を見ると、今私たちが何をやっているか、
その不合理さがよく見えるということ。
始めに申し上げたように、江戸時代の生活というのはついこの間まで現実
にやっていた事なのです。
ほんの2世代くらい前まで続いてきた生き方を、未来への指針として前向
きに評価し直すことは決して無意味ではありません。
もうひとつは、これだけ急激に変化が起きたということは、何かあった時
に元に戻すのも比較的容易かもしれないということです。
現状のままでいけば世界の資源は早晩行き詰まるのは目に見えています。
その時私たちはどうすればいいのか。
そのモデルのひとつとして江戸時代は多くのことを私たちに伝えてくれ
ます。
石油ショックの時を考えても想像がつくように、変化に適応する器用さ
を備えた日本人は、「江戸的な生き方」にも案外抵抗なく順応するかも
しれません。
それに大切なことは、江戸時代の人々が自分たちの生活を決して不便とは
考えていなかったということです。
昔の文献を見ると、それなりに流行もあったようですし、結構贅沢もして
いました。
同時代の欧米諸国に比べて、江戸時代の日本は決して貧しくも不合理でも
なかったのです。
●長持ちさたい、便利な塩ビ
私は自宅に小さな菜園を持っています。
農ビも使っていますが、もう10年も買い替えたことがありません。
水道管や電線用の塩ビも、長持ちはするし漏電の心配はないし、まさに
塩ビならではの便利さだと思います。
こういう便利なものが目の前にあるのに使わないということはむしろ不自
然ですし、使えるうちは使うべきだと私は思います。
ただ、現代の産業構造が段々と縮小することは避けられないということ
だけは、塩ビ業界の方々も考えておいたほうがよいでしょう。
塩ビも、和紙のように百年二百年使える形にできれば使う方も作る方も
お互いに幸せですが、使って捨てなければいけないというのが現在の経済
構造の不幸な点だと思います。
資源をできるだけ長持ちさせるためには、せめて製品を開発して販売し
始める前から、回収して再利用するシステムの中に製品を組み込んでおく
といった対応が望まれます。
そして、いよいよなくなってしまったら、その時こそ江戸時代に戻れば
いいのです。
−−−
http://homepage2.nifty.com/watertreatment-club/theme/hugo.html
ビクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』
第5部2章 巨獣のはらわた
生活排水処理は、
もっと単純にすべきだ。
1、発生源処理を原則にする。(管渠は最小限にする)
2、物質循環の一環としての処理=再生。捨てるものではない。
3、機械薬品のハイテク化、スケールと量のメリットを追求しない。
総じて、下水道に代表される現在の大規模水処理技術の否定、批判に
なるようなものだ。
こうした批判の視点は実は当のヨーロッパから出されていた。
それが、ビクトル・ユゴーの下水道についての言及である。
第5部第2章 巨獣のはらわた とくに「1、海のために痩せた土地」から
の箇所に書かれていることは今も有効だと思う。
ジャン・バルジャンが下水道へ入った瞬間、波乱のドラマが、一転、NHK
ドキュメンタリー番組『クローズアップ現代』に変わったような雰囲気で
めんくらう。
小説の展開の中に岩波新書1冊になろうかとというレポートを挿入する
手法は、19世紀の小説の通有であり、同時にユゴーが独自の用い方をして
いるもののようです。
(詳細は文庫本の訳者解説。他に研究書はあるだろうと思われます)
「パリは年に二千五百万フランの金を水に捨てている。
これは比喩ではない。
どうして、どんなふうに?
夜も昼もである。
なんの目的で?
なんの目的なしに。
どういう考えで?
なんの考えもなしに。
何をするために?
なんのためでもなく。
どんな器官を使って?
そのはらわたを使って。はらわたとはなにか?パリの下水道である」
★
現在、東京は、ニューヨークは、・・・先進国の大都市はどれだけの金
を水に捨てているのか。
この数字の算出が一仕事だ。
でもまあ、専門家がいてどこかにデータはあるはずだ。
★
その目的については、当然「立派な目的、意義がある」という反論が山と
あるだろう。
もうこれだけで、いわゆる衛生工学の専門家の先生たちがわーっと寄って
たかって襲いかかってきそうな感じがする。
でもまあ、1800年代半ば、遠くはパリの一小説家がいってることだ。
そう、むきになってもらわず先に進もう。
「科学は長い探求のすえ、今日では、肥料のうちで最も養分の多い、
もっとも有効なのは人肥であることを知った。」
★
これはどうであろう、衛生工学者に加えて肥料会社からも関係者が飛んで
くるだろうか。
人糞の有効性が言われるが実際、どうなんだろう。
戦後の衛生思想、いま抗菌グッズまで行き着いている風潮が、一方にある。
しかし他方、江戸は世界一衛生的な都市であったという事実もある。
何よりも農業にとってどうなんだろう。
農業に大量の化学肥料は何をもたらしたのだろう。
有機農業農産物の表示は、大量施肥大量農薬の戦後農業の反省だ。
東洋、日本の紹介
「中国の百姓は、町に出ると必ず、われわれが汚物と呼ぶものを一杯入れ
た二つの桶を竹竿の両端にさげて、かついで帰るそうだ。
人肥のおかげで、中国の土地はいまでもアブラハムの時代と同じくらい
若々しい。」
★
この報告はエッケベルクという人によってもたらされたようだ。
東洋へ出かけた宣教師か商人か。
いずれにしろ、中国というのは疑問がある。日本なら間違いない。
中国も含む東洋全般も考えられる。
情報の伝わり方、原文がどうなっているかの検討。
★
中国の農村のし尿処理の歴史と現状を正確に知ること。
野つぼがなかったことはわかっている。
現在は、バイオガス方式が主流のようだ。
★
韓国、済洲島では豚の餌にするというのは有名。
★
どちらにしても「肥え桶をかつぐ農民の姿」は日本の江戸時代であること
は間違いない。
その肥料のおかげで江戸近郷の土地が豊かに保たれた。
江戸だけでなく地方の都市と近郊も同じ。
鎌倉時代から始まったといわれている「野つぼと畑の関係」の歴史。
詳細に。
「中国の小麦は一粒が120粒もの収穫をもたらす。
肥料性の点でどんな鳥糞石(グワノ)も一都市の排泄物にかなわない。
大都市は、盗賊かもめのうちでも、もっとも強力である。
田野の肥料に都市を使えば、きっとうまく行くだろう。
われわれの黄金が糞尿だとすれば、逆にわれわれの糞尿は黄金である」
★
都市から見た時、資源として農村に売るものであった。
文献とエピソード多数。
長屋の店賃、大家の収入、辻便所、武家屋敷と町人の町の肥料度の違いと
価格の違い、城や屋敷から水路を船で運ぶ(数々の時代劇シーン)、
し尿をめぐる利権争い(藤田雅也著『糞袋』新潮社、京都を舞台に、
前半部)、農民間であらそいと入札(戦後1950年代まで確認されている)
糞尿で財をなした話、明治初期横浜の商人、公衆トイレの先がけ。
★
北陸(富山?)では火薬にしていたという記録もある。
★
付随して、野つぼのエピソードも多数。
落ちた話など。
井上ひさし『コメの話』新潮文庫、111〜112頁、図解入り)知ってる世代
はこの話だけで夜なべ談義はおろか3日やそこら話は尽きないと言われて
いる。知らない世代は?お気の毒さまでした。
★
当時の生産額、土地面積、人口、労働人口、消費人口。
あるいはひとつの藩や都市での生産額と肥料の割り出し、糞尿の生産量の
割り出し。概算は出来るはず。
世界を養うに足りる
「この肥料を人はどうしているか?
深淵に掃き捨てているのである。
多くの船団が莫大な費用をかけて、南極でウミツバメやペンギンの糞
を採集しに送り出されているが、手元にある無限な富の要素は海に
送り込まれている。
世界が無駄にしている人間と動物の排泄する肥料をそのまま、水に投じる
ことなく土地に施せば、世界を養うに足りるであろう。」
★
鳥の糞を肥料として集める習慣、調べること。
おそらくリン(P)を求めてのことだろう。
現代は南極へ船団を送り出す代わりに工場で化成肥料の大量生産を行っ
ている。
商社・農協は農家に売りつけ、農地に大量散布している。
そして、当時のパリと同じように富の要素は、機械設備、薬品、人員
そしてコストをかけて「放流」して海に流しこんでいる。
高い費用をかけて買い、高い費用をかけて捨てている。
★
海に捨ててるものを肥料として土壌に還元すれば世界を養うにたりると
いうことを現代において、可能とする数字を示すこと。
「・・・それを大きなるつぼに入れよ。
そこから富が出てくるだろう。
野を肥やすことは、人間を養うことになる。
この富を無駄にすることも、また私の考えを笑うことも自由である。
だが、それはこの上なく無知をあらわすものだろう。
統計は、フランスだけで毎年5億フランを諸河口から大西洋に流失する
と計算している。
5億あれば国の予算の4分の一がまかなえることに、注意してほしい。
人間の賢さは、この5億を川に投げ捨てるほうがいいと思っている程度
である。」
★
処理水の放流だからこの当時よりは、下水道の技術も処理性能もあがっ
ている、という反論は当然あるところだ。
いまごろ、ユゴーの時代と同じ水準でものを言ってほしくないというわけ
だ。
でもそれは、単によりいっそうコストをかけるようになっただけの
ことで資源を捨てる金額と労力を増やしたというだけのことではなかろ
うか。
パリ(都市)の才知と愚かさ
「モデル都市パリ、各国民が真似ようとするよくできた首都の典型で
あり、理想の首府であり、独創と推進と試みの荘厳な祖国であり、
清新の中心地であり、一国をなす都市であり、未来を含む蜜房であり、
バビロンとコリントスのすばらしい合成であパリが、今指摘した見地
からすれば、福建省の百姓に肩をすくめさせることだろう。
パリの真似をしたら、身の破滅である。・・・・」
★
日本の農民や漁民が、下水道にたいして合併浄化槽の放流に対して、
「なじめない、もったいない」と循環資源の廃棄に対して本能的な忌避感
をしめした時、行政は「遅れている」といって一蹴してきたのである。
「この驚くべき無能は、事新しいことではなく、決して若げのあやまち
でない。
古代人も現代人も同じことをしていたのである。
『ローマの下水は』とリービッヒ(訳注 ドイツの化学者)は言ってい
る。
『ローマの農民の福利をすっかりすいつくした』。
ローマの田野がローマの下水道のために荒廃した時、ローマはイタリア
を衰微させ、さらにイタリアを下水道を流しさったのち、シチリアを、
ついで、サルジニアを、ついでアフリカも下水に流しさた。
ローマの下水は世界をのみつくした。
その下水は、この都市と世界にむかって口をあけていた。
『都市と世界』にむかってである。
永遠の都市、底知れぬ下水道。
他の点と同様に、この点でもローマは手本を示している。
この手本にパリは従っている、才知の都市に固有の愚かさをもって。」
★
以上で、ユゴーの引用の基本部分を終わる。
写して引用したい箇所はまだあるが、是非、皆さんで直接あたって確認
してほしい。
基本的な考え方はご理解いただけたと思う。
私たちの課題は、文学的表現のなかにはらまれている本質的な批判を、
「気のきいた表現」から歴史的な各段階の整理、今日のデータと技術と
で再構成して、「21世紀の水処理法」を構想することだと思う。
少なくとも、「下水道が今あるから下水道が正しいのだ」ということで
はなくて創造的な視点と技術を作り出してゆくべきだろうと考える。
文献の補足
★
引用はしなかったけれど鯖田豊之著『水道の思想』(中公新書、1996年)
を参考にしながらユゴーの文章を読んでいました。
この本はほとんど上水道のことしか触れてませんが、しかしその中でも、
ヨーロッパでの「潅漑法」という汚水処理法の紹介は興味をひかれまし
た。8頁から11頁参照。
汚水処理と農業用水を結びつけたものです。
今は消滅しているそうです。
なぜヨーロッパで広がらなかったのか?は大事なテーマです。
(私の試論ですが、気象条件以上に下水道的な大規模技術と設備で対抗
しようとして敗れ去ったのではないかと思います。
発生源でそれぞれ極力、小規模で処理するという思想が欠けていたので
はないかと見当をつけています。これはいずれまた詳しく考えます。)
★
また、1999年11月、農水省と環境庁の検討委員会から『有機性資源循環
利用の促進のための基本方針』という文書が出されています。
環境庁のホームページで私は読みました。
その中に、こう書かれています。
「生ごみ、食品産業廃棄物、家畜排せつ物、下水汚泥等の有機性資源
(廃棄物)は、有用な資源として再生していくことが可能。
しかし、現在は、その多くが逆にエネルギーを使いながら処分。
人口・食料・環境・資源等が地球規模の問題となりつつある中で、
有機性資源の循環利用に取り組んでいくことは、物質循環の回復や
生態系の保全を通じ、こうした地球規模での問題の解決に大いに貢献。」
ビクトル・ユゴーがこれを読んだら
「なんだ、お膝元の日本(東洋)でもやっと今ごろになって
資源再利用を言い出した程度なのか」と笑うかもしれません。
『野つぼと畑の関係』
江戸時代が、し尿の資源循環でみると、ひとつのリサイクル社会であった。
その基礎になっている仕組みである。
特に野つぼに約3ヶ月、貯めておくということが重要で、現代風にいう
「嫌気性消化」がなされていた。
このプロセスを省いては、リサイクルも循環も骨抜きになる。
もちろん、畑だから土壌菌の働きも大きい。
今の水処理の専門家は水は水の中で水中微生物だけで処理せねばならぬと
固くと思い込んでいるから、井の中の蛙より視野が狭い。
野つぼ、肥壷のやり方は、地方ごとに少しづつ異なっていてそのデータ
保存はかなり大事な作業だ。
誰かやってるのだろうか。
サイト検索をかけると、品性のない罵倒用語として軽薄に使われている
様子はつかむことが出来るけれど、本来の言葉としては数件しかなかった。
しかし、その「野つぼと畑の関係」は、今、農村で崩壊している。
外部から入る肥料が多すぎて、人糞を資源としてリサイクルする必要がない
という問題。
鶏や牛や豚からコンポスト化しても、また下水道やし尿処理場の汚泥を高額
なプラントを建設して肥料にしても、さばききれないことがほとんどとい
う。
さらに、農薬=農毒といわれるくらいに、散布されて危険になっている、
もう慣れっこになってしまっているという問題。
捨てなくていいものを費用とエネルギーをかけて捨て、その捨てるもの
をまた高価な金を払って買うという構図が、ある。
もうちょっと、シンプルにならないものだろうか?
■処理法 、物質循環からみた処理工法(大雑把なメモ)
1、
ゼロ・エミッションの考え方、廃棄物をゼロとするために次の物質循環
へ渡していく、リサイクルしていく考え方から、生活排水処理の処理法
を分類してみました。
人間の排泄から、し尿及び生活雑排水が何段階かの処理工程を経て、
フローの最終生成物はどうなっているか、どう引き渡しているか、
ということの検討です。
[嫌気性処理・土壌浸潤(無放流タイプ)]
処理水:無放流。土壌還元と蒸発散
汚泥:嫌気性処理による分解と減量化、特別の処理工程無しに肥料化可能。
[下水道]
処理水:河川、海などの公共水域に放流
汚泥:産業廃棄物扱い、再利用には別途プラントが必要。
[農業集落排水事業]
処理水:河川などへの放流
汚泥:し尿処理場への搬入(一般廃棄物扱い)
[合併浄化槽]
処理水:河川、公共水域への放流。
汚泥:し尿処理場への搬入(一般廃棄物扱い)
2、
さらに各工法について表にして比較対照すると興味深いでしょう。
複雑性、単純性
動力を使うかどうか
薬品、化学処理が必要かどうか
発生源との距離
維持管理の難易度、維持管理のコスト
3、
従来、無放流タイプの汚水処理システムは余儀なくされた選択という扱
いを受けてきました。
放流先が遠い、配管コストがかかる、そもそも放流先がない、という
条件下においてです。
さらに放流先があってもダム湖、湖沼、水源の上流、などのため富栄養
化防止のため放流しないという考え方から技術の進歩がはかられてきま
した。
(法律的には、下水道法、浄化槽法とは別途に改良便槽→建築基準法
第38条、特殊な材料・構法)
今日では、さらにもう一歩進めて「河川、海はこれ以上の処理水の放流
に耐えられるのか」という視点から検討する必要があると思います。
瀬戸内海のカキの養殖場の困難さに象徴される富栄養化は(他に要因は
多々あるせよ)処理水の放流も一因とみるべきではないでしょうか。
結果があらわれる閉鎖性海域、湾は、また海洋全体の将来をも先取り
している、と考えるのが当然です。
希釈効果にはいずれ限界があります。
4、
はじめに戻って、資源として再利用という視点に立てば、処理水に残留
している栄養物(特にチッソ、リン)を水路から川、川から海へと放流
することは捨てるということであり、物質循環を人間が切断してしまう
ことです。
膨大な無駄と悪循環を作り出しているのではないか、ということです。
5、
近代下水道の歴史、各フローでの先人達の血のにじむような研究の蓄積、
現に投下されている社会資本の膨大な集積、さらに設定されている
将来計画。
私を含め既存技術の常識と現実にどっぷり漬かっているわけですが、
とらわれない立場で根本的に見直していくことが必要だと思います。
<rindolf> sussman: I get a " " instead of "!"
<sussman> !!
<sussman> for the parent directory?
* sussman banishes libsvn_wc into the underworld
-- #svn, Freenode
Chandler: Entering with an issue of Cosmo All right, I took the quiz, and it
turns out, I do put career before men.
-- David Crane & Marta Kauffman
-- "Friends" (T.V. Show) ( http://en.wikipedia.org/wiki/Friends )
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