The abuse of greatness is when it disjoins remorse from power.
-- William Shakespeare, "Julius Caesar"
It's not true that those who can't do, teach (some of the best hackers I know
are professors), but it is true that there are a lot of things that those who
teach can't do. Research imposes constraining caste restrictions. In any
academic field there are topics that are ok to work on and others that aren't.
Unfortunately the distinction between acceptable and forbidden topics is
usually based on how intellectual the work sounds when described in research
papers, rather than how important it is for getting good results. The extreme
case is probably literature; people studying literature rarely say anything
that would be of the slightest use to those producing it.
Though the situation is better in the sciences, the overlap between the kind
of work you're allowed to do and the kind of work that yields good languages
is distressingly small. (Olin Shivers has grumbled eloquently about this.) For
example, types seem to be an inexhaustible source of research papers, despite
the fact that static typing seems to preclude true macros-- without which, in
my opinion, no language is worth using.
-- Paul Graham
-- "The Hundred-Year Language" ( http://www.paulgraham.com/hundred.html )
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「人を育てる」ということは簡単なようで難しい。
そんなことは分かっているという方もいるだろうが、では、現代社会の中で
「人を育てる」事を考慮して仕事をしている人が何人いるか。
そう居ないことは明白であろう。だから難しいのである。
我々は社会を形作っている。社会とは何をしているのか。
まさに「人づくり」をしているのである。会社の組織もそうである。
仕事を通して「人づくり」をしているのである。
それを忘れていると、とんでもない会社が出来上がる。
一番の根本こそが「人づくり」なのである。
そう考えると、すべての事が見えてくるではないか。自分はどうすべきか、
どうあるべきか。組織はどうすべきか、どうあるべきか。見えてくる。
講演
ヤンキー母校に帰る
北星余市高校の義家です。今日の題は「ヤンキー母校に帰る」ってなって
いますが、ヤンキーって簡単に言いますけど、自分31歳になりますが、
人生の三分の二はうしろ指さされるようなものだったような気がします。
誇りなんかではなく自分のけじめ、どうつけていったらいいか、いまも
苦悶しながら生きています。
ヤンキーとか不良とか言われる存在は、いつしか年をとって「俺も大人に
なったよ」というイメージがありますが、自分にとっては、いま、人間とし
てまた教師という立場で、自分が傷ついた、自分を取り戻した学校という場
所で必死に生きている気がします。
これから教師になるまでの歴史をお話したい。
少年時代〜愛して、認めてほしい
72年3月に私は、未熟児としてこの世に生を受けた。
ケチのつき初めというか、実は離婚の調停中に生を受けた。父と母が親権ど
ちらにともめていた。
そんな状態でバタバタしていると感じて生まれたのではないか。そして結局
私は、父に引き取られた。
会社を経営していた父は家にいないので、祖父母に育てられた。祖父母は、
自分にとってかけがえのない存在でした。家庭は父と母がいて役割分担するの
がベストなんだろうがそういう場面に出会えない中で父親の再婚がありました。
自分が7ヶ月という時でした。姉がいましたが、新しい母親に弟が生まれま
した。
どこの家庭でもあるでしょうが、イス取りゲームが家庭で始まった。
子どもは親の膝の上にのる。当然新しく生まれた子は母の膝に。
お父さんの膝をめぐって姉とのイス取りゲーム。私は負けてしまった。
私にとっては家族団らんが寂しく苦痛で、食事の時間がすごく嫌いだった。
自分はご飯食べるのがとても速い。その始まりは、早く終わらせて自分の部屋
に行きたいということだった。すごく悲しい。寂しかった。
何となく寂しい、認めてほしい、愛してほしいと心の中で感じながら幼稚園
の年少時代を過ごしてきた。やんちゃを始めるようになった。
年少組にいる時からボス的存在に。そのやんちゃが嬉しかったことがある。
自分の子どもの時は王さんが活躍していた。野球が流行っていた。バットをみ
んなで持っていって、畑を荒らした。リンゴをばったばったと落とした。
親父から農家の苦労を知らないと、こっぴどく叩かれた。その後であいつは
面白いことをすると親父が話していた。悪いことしたのはわかっているが父親
は誉めていると思った。このときは本当にうれしかった。
それがきっかけになり、いろいろやった。小悪をするようになった。でも、
ひずんでいたかというと決してそうではなく、なぜ自分がそうなっていったか
説明できないが、その一因として嫁姑の関係が強かったと感じている。
義家は古い家庭でした。おばあさんが後妻に冷たくあたった。そして、母親
の責めの対象が自分に向いていると気がついた時に、少しづつ母への憎しみが
芽生え始めていった。
家庭内での二重教育が始まった。例えばこんなことが。長野は盆地で寒い。
おばあさんが何枚も重ね着をしてくれる。そんな自分の姿を見て母親は一枚づ
つはがしていくなんていうこともあった。
「今に見てろよ」と憎しみが芽生えていく。なんで八つ当たりされなくてい
けないんだ。それが教師にも向いていった。
自分は三月生まれ。小さい体だったので、ランドセルが少年を背負っている
と親父がよく言っていた。勉強もできない。席に着いているのが精一杯だった。
松尾君という勉強できる、スポーツできるのがいた。二人でいたずらして見
つかり謝りに行った時のことですが彼に向かって「なぜお前がついていながら
こんなことを」の先生の一言。
待てよ、あいつが言い出したことだろう。同じことをして自分がしかられ、
彼には「お前がついていながら」と言われるんだ。それは、彼は勉強できて人
に優しくてスポーツもできた。そこでひとつ学習した。勉強できると教師は甘
いと感じた。
そんなこともあってそれから勉強に没頭するようになった。意地でも100
点取ると。その裏でいたずらをした。トムソーヤの冒険でもやっているように、
外でいたずらして、勉強だけはしっかりやろうと、強く思った。
中学でも同じで、自己顕示欲が発揮された。髪を染める、背伸びの発言をす
る、いろんなことをやった。不良の行動は能動的ではなく、受動的なもんです。
要するに周りから認知されはじめた時、枠からはじけると不良が出始めるんで
す。
初めから人に嫌われたい人間がどこにいるか。できれば大切にされたいと思
う。だけど大切にされない現実がある。自分の気持ちを「不良の行動」以外に
解決する方法が見つけられない。
いつしか「この子はわがままで生意気で自分勝手でけじめなくて」という周
囲の目に押しつぶされる。そういう見方を自分が受け入れた時に、人の意見を
聞かない自分となっていく。
中学校に入ると、当時は「横浜銀蝿」がかっこいい、そして「チェッカーズ」
髪を茶色にしていたフミヤ。入学式では短ラン着て藤井フミヤになった。
小さいから威圧感も迫力もないが、自分ではカッコいいなと素直に思った。
どうせ嫌われ者だしと一方では考えていた。
入学式迎えて本当の意味で「認知される不良」になった。入学三日目に、先
輩からテニス部の部室に呼ばれた。その時に感じた恐怖、半端じゃない。相手
はパンチパーマでヒゲ生えている。「ハイ」しか言えない。恐くて反抗できな
い。自分にとって、先輩たちは別世界の人間だった。
「お前許さない」と近づいてきた。甘んじて暴行受けた。泣きごとを言わな
かった(実は恐ろしくて何もできなかったのですが)自分を見て、先輩たちは
「お前、根性ある」と言って、「一年生をお前に任せる」ということになった。
「お前も吸ってみろ」と、セブンスターを差し出された。吸ったことない。
吸い込んでみた。クラクラしてなんとも不思議な感覚で、大舞台にデビューし
た、特権階級に入ったと思ったんです。
父親に自分の気持ち気づいてほしいと思っていた。自分を包んでくれた存在
が、学校、家庭からあふれて来た「不良」と呼ばれる者たちだった。彼らが自
分を受け入れてくれ、許してくれ、思ってくれる。
正しいか間違っているかというと間違っていたと思うんですが、当時、自分
は安らぎを感じた。
ケンカやって相手を傷つけたりもした。そしたら次にバックが出てきて自分
がやられる。そんな時「カタキとって来てやるからな」と言ってくれる。先輩
たちは、自分には温かい仲間だった。
やっていたことは充分悪いことだが、でも、すごく安心できる空間だった。
だから家に帰らなくなった。知らないこと教えてもらったり、様々なことした。
自分にとっては、安らかな時間、自分を受け入れてくれる時間だった。
勉強のできる不良、かっこいいでしょ。夜中まで遊んで、夜中まで勉強し、
学校ではゆっくり寝るという生活だった。教師は余り怒ってこない。俺にひれ
伏す時が来たかと思っていた。教師はちょろいもんだと。
HR運営する時に、力強いところに頼ってくると。そして進学校に進んた。
今私は教師やっていますが、いまだったら許せないですね、そんなもんがいた
ら。
退学、そして人生のターニングポイント
ひねた存在だった。でも一皮向けば弱い十代の少年だった。それが転機にな
った。学校ではつまらなかった。高校はわかろうとわかるまいと進度すすむん
です。すごく無機質な空間に感じた。
どろどろしていた中学校時代とはまた違ったところだった。謹慎も高校に入
って直ぐに受けた。中学校では何をしても、それはなかった。高校をなめてい
た。最終的にはやめることになる。
学校が面白くないとなると、夜の街に出るようになり、地域の不良少年から
市内の不良少年にステップアップしていった。町を歩くと怪しい金髪がいる
。同級生が「ヨー」と声をかけてくる。家に居たくないと思ってしまう。
辛い思いするくらいなら仲間といる方がいい。みんなが自分を認めてくれる。
そんなことをしているうちに「こんな生徒、置いておけない」ということで自
分は、学校を失うことになった。
退学したって何とかなると思っていたが、そんなに甘くなかった。希望が持
てなくなった。
自分の世代はベビーブームでした。高校入る時倍率は2倍あった。生徒足り
ないところなんてないわけですから、やめても入れてくれるところない。
人生閉ざされたと感じた矢先、父親が告げた。「おまえは、散々俺に迷惑か
けてきた。学校やめた以上、家にはおけない」と。
児童相談所に預けられることになり、家を後にした。これから一体自分はど
うなるのか、絶望でした。いずれにしても家を追われて戻れない。
「どうなる?」一週間、ずっと泣いていた。あきらめるしか方法はなかった。
相談所の人たちがいろいろ考えてくれて、ある夫婦のもとに里子に出されるこ
とになった。15歳でした。
自分の人生のターニングポイントになっていったと思う。
知らない人の家に行き、仲間とも断絶。自分には自分と向き合う孤独しかな
かった。引きこもり、外が恐いとおもった。大人って力があると思った。自分
はただのちいちゃな人間だと気づいた。大人は抗することのできない強大な存
在だと思いました。
里親からは「何もしなくていい、”離れ”で居てくれればいい。三食一緒に
食べてくれればいい」と言われました。何もしなって、人間にとって一番つら
い時間なんです。
まったく何もない。朝がやってきて食事し部屋に戻る、昼に昼食をして部屋
に戻る、そして夕食をして部屋に戻る。そのくり返しの生活、一日がとても長
く感じた。何もしない生活を一年間した。
一日中テレビを見たけど、飽きるのは当たり前、何も満たされない。当然、
自分のこと考える。「ここから自分は脱出できるんだろうか」と。里子は18
歳までしかダメなんだ。「自分の将来はどうなるんだろうか」心を閉ざして生
活した。
そんな生活のなかで、革新的?な(と当時は思った)本に出会った。心が揺
さぶられた本でした。
離れは、哲学科にいっていたお姉さんの部屋。哲学書があった。よくわから
ないこと書いていた。
その中でヘーゲルの本に出会った。多くは理解できなかったが、弁証法とい
う言葉に出会った。否定と肯定のくり返しのなかから統一へ向かうという考え
方にであった。
今までの人生ではすべて否定し続けてきた。親、教師を許せないと思ってき
た。友達だって自分がこうなったら去っていった。果たして自分は肯定をした
だろうか。
すべてを誰かのせいにして否定し続けてきたのではないだろうか、果たして
裸の心で受け入れたことあったのだろうか。決してなかったのではないだろう
か。
自分に大事なのは今を受け入れることだ。矛盾から統一へと向かうためには
肯定することではないかと、弁証法というものを16歳なりの解釈で感じた。
肯定すべきもんと言ったら何か。選択肢の一つに学校への復帰があった。当
時は単位制高校もない。「市内で別の高校行くのは許さない」という父親の感
覚もあった。高校へ戻りたいとの漠然とした思いがあった。
そんな時、88年に、「こんな学校もあるよ」と里親が見せてくれた。北星
余市高校が中途編入者を受け入れると新聞に載っていた。おじさんおばさんか
ら頼んでほしいと話した、これからは一切迷惑をかけない、チャンスくれるよ
うにと。
父は「本当に嬉しい」と言ってくれた。父は俺が言い出した時に本当に嬉し
かったらしい。それは、問題児が自分のそばからいなくなるというのが理由だ
った。
それ聞いた時に、許せると思った。周りに迷惑ばかりかけている人間、自分
と合わない者がいなくなってくれた方がいいと、本音で言うおやじの姿を見て
本当にそう思った。
その時に、自分の中で親父との軋轢のすべてがなくなったような気がした。
北星余市高校で、人生の師との出会い
中途編入の最初の年に、北星余市高校にやってきた。当時は不登校より挫折
組が多かった。行く場所がない者がたくさんいた。集まった連中を見て中学の
時を思い出した。
パンチパーマとかリーゼントとか、自分はやっていたが長野では少なかった
が、そこには「本物だ」という者がいっぱいいる。千葉のスペクターで頭やっ
ていたというものも。
そんななかで「俺も悪かった」と言うしかなかった。同じ傷という共通項が
あった、俺もなんだと。気持ちを共有できるものがいた。でも、それだけだっ
たら中学時代と何も変わらない。その点で、北星余市は違っていた。
生徒に関わる教師が違っていた、地域が違っていた。自分たちは全国から寄
せ集められるようにして余市にやってきたが、余市の大人はかっこ悪く、そし
て真剣だった。
下宿のおじさんやおばさんも教師も、初めから気づくほど大人たちが、いろ
いろ関わってくれた。
しかし、自分たちは大人になっていないから、ここでも一暴れして、さっそ
く停学受けたり矛盾だらけの自分だったりもしたが、確かにここは違っていた。
そんな時、安達先生という恩師に出会った。尊敬している人物です。
ことの始まりは、つまらないことから好きになった。
自分は特権階級と思っていたので掃除などしたことなかった。ある日、その
当番の一人になった時に、何もしないでそのまま帰った。
そうしたら先生が下宿にやって来て、真っ赤な顔して「あなたは掃除サボる
のか、それは許されない」。先生は上手に表現できないがとにかく「許さない」
とくり返し自分に迫ってくる。許さないと赤い顔して言う。
「机は下がっています。明日学校に来てみんななんて思うかしらね」。俺は
けっこう踏ん張った。でも先生は、たかが掃除で一時間粘った。
しかたなく学校へ行き、暗くなった教室で先生と二人で掃除した。そんな事
しているうちに「この人、嘘くさくないなあ」と思った。
先生は、いまでもそうなんですが「直球」しか投げない。それも、へなへな
した「直球」なんです。俺が受け止められる速さで投げてくれていたんだろう
と、いま考えるとそう思う。
ポンポン届く「直球」。卒業するまで数え切れないくらい投げ込まれてた。
その「直球」に応えようとする自分がいることに気づいてきた。あれだけ、
かたくなだった不信が変わってきた。仲間たちとの出会い、先生との関わりが
自分の心を溶かしてくれた。希望を持って大学に進むことができた。
九死に一生を得て、教師への道を
安達先生は自分の人生の師でもある。大学時代の事件によってそうなった。
親からの仕送りもない状況ですから、大学では、キャベツ生活を過ごした。
100円のキャベツで一日は千切り、次に炒め物、そして煮物。キャベツ一つ
で誰にも甘えずに生きていける。
たばこなんか吸えない。金ないから。日雇いのバイトもやった。家庭教師の
バイトやった。
自給で2000円から5000円、2時間で1万円。その子は東大に入った。
その子の方が俺より頭いいだろうけど、すごく感謝された。
夜中にファックス入る、わからないんだと。自分もわからない。必死に考え
てファックス送る。わかりやすい先生だと言われる。真剣にやって返す球は、
真剣だという事実だけで許されるものだろう。
大学に入ってとにかくビックな人間になろうと思い、自分は弁護士をめざし
て勉強した。とにかく勉強した。一日15時間勉強した。法学部にいましたが、
大学へは行かずにレベルの高い予備校でやった。
そんな時、自分の人生を変える事故を起こしてしまった。大学4年の秋、バ
イト帰りにバイクで転倒した。辛い記憶だからはっきり覚えていないが、お酒
も少し入っていて事故を起こした。
内臓破裂させた。胃、腸、膵臓が破裂する。危篤状態がつづいた。
その時に、高校時代の恩師が、学校休んで横浜の病院の枕元にいた。自分が
記憶のない時に、生死を行き来していた時に、先生が枕元で泣いている。オム
ツ取り替えている。口から吐くのを拭いてくれる。
そしてこう言う。「あなたたちは私の夢なんだからこんなところで死んでは
いけない」と。
自分はこれまでそんな言葉かけられたことがなかった。ドラマなんかで、そ
んな言葉を聞いても「何行ってやがるんだ」で終わるけど、自分がそんな言葉
を聞ける人間だったのか、何もなかったみんなに嫌われていた自分が、枕元で
そんなことを言ってもらえる価値ある人間なのかと、自分に向かい合いながら
考えました。
そしてその時、この人の30数年間歩んできた道のつづきを歩んでいこうと
決めたんです。母校に戻って行くんだと…。
それが現実になるのか。現実に母校に帰れるのかと考えると、普通に考えた
ら目指したとして一番古い先生がやめないとなれない。ほとんど入れる可能性
はミニマムだった。
だけど自分はそれを信じた。そうなることを信じていた。その為に必死に努
力した。
北星の教師になるには分かり易い授業をしなくてはならないと思い、まず、
予備校の教師になった。でも、教える内容が難しすぎるんです。小中学校の生
徒にもわかるような勉強は、どうやるんだということで、北海道に帰って、塾
の仕事をした。
塾では年4回、生徒からアンケートを採って「わかりやすい授業、わかりに
くい授業」の評価を集めるんですが、私はすごかったですよ。何がすごいって、
北星余市に帰ってわかりやすい授業をどうやるかという意志がすごかったと思
います。
塾での授業が終わる10時過ぎから夜中1時、2時まで教材研究したり、板
書を何度も書いたり、どこでどういうギャグを入れるか考えたり、とにかく分
かり易い授業を追求していった。それが今の土台になった。
そんなことをしているうちに、99年4月、ようやく夢が叶いました。その
時28歳になっていました。
いま、泥まみれになって、2年生の担任として日々やっています。1年間は
恩師と背中を並べて働きました。自分の師事している人間と同じ場所で同じ思
いでバトンタッチできるまで仕事ができたのは生涯の誇りとです。
今後それに恥じない人間になろうと強く思っています。
思い、情熱を伝える教師になろう
北星余市高校は、今も昔もこれからも、社会の歪みから更に漏れて来る子供
たちと向き合っていく使命もっている。
自分の使命としても同じように、社会の歪みの中で、漏れて生きている人間
として彼らに寄り添う使命があると感じている。
偉くなりそうになる瞬間って教師にはある。自分の考え方ひとつで、生徒を
けちょんけちょんにすることできる。その時、常に自戒の念にかられる。
その時、自分は偉くない、必死に生きて来たこいつらの仲間に過ぎないと、
絶えず胸に打ちつけながらやっている。
時代といえば変だが、いまの時代本当に混沌としている。教育の崩壊が叫ば
れたり、よくわからない大人が出て来たり、ある意味では、子どもは不幸だと
思う。
団塊の世代の時代は、少なくともいい高校に入り、いい大学に入って、いい
企業入ればいい人生が待っているという概念や、公式を社会から与えてもらっ
ていた。
では、いまはどうだろうか。いい高校・いい大学・いい会社に入っても、大
人たちはリストラの不安でびくびくしている、死んだように街を歩いている。
こんな姿を見て「イミないじゃん」そう思う子どもが出て来るのは自明でし
ょう。
学校でも、昔より教師の言うこと聞かなくなった、教師の質が下がったわけ
ではない。しかも「本当に教師になりたい」と思う人が多い時代で、なりにく
くもなってきた。
その力が大幅に落ちてきているわけではない。親の思い、子どもに馳せる夢
が軽くなっているわけではない。昔と変わらない。
では「崩壊」が叫ばれている原因はなにか。
「権威」による関係が崩壊した。利益ない権威に従う人どこにいるか。学校
において「点数を取れ」の権威は、彼らには何の意味もなくなっている。
静かにしろと言っても聞かない。いま何が必要なのか。「大変だ」では始ま
らない。本気です。
本気にやつらのことを思い、本気にやつらを好きになって、本気になって泥
にまみれれば、やつらは応えてくれると思う。
本来自分はクールで、すかした男なんですが、彼らの前に出ると三流の漫才
師。なぜなのか、彼らの笑顔見られれば最高だ。だから、ひとつひとつの場面
で自分はきれいでいられない、かなり汚い、なんてかっこ悪い先生だと思われ
るくらい失敗もするんですが。
夜中に2時間も電話かけてくる高校生、変だよね、彼女できたんだって、と。
彼らと一緒に泥だらけになって一緒に泣いたことも。そういう積み重ねの答え
だったと思う。
希望持てない時代だと言われる。では、大人たちは教育に希望もっているか。
教育に希望をもてない大人。大人たちでさえ持てない希望を子どもたちが持てる
はずがない。
だとすれば、現状は混沌としたものであり続けるというのは自明です。
自分の好きな言葉があります。魯迅の言葉ですが「希望とは道のようなもので
ある。歩く人が多ければそこに道ができるのだ」。多くの人が希望を見い出し、
自分の足で歩き出せるなら狭い道かもしれないが道はできていくと思う。
いま子どもに関わる、教育に関わる大人たちとして、彼らに何を要求して行
くのか。自分は、様々なものに冷めて、そして諦めてきた彼らに、熱を注入し
ていきたいと思う。
そこには方法論もない。時として「お前は直球ばっかり」と揶揄されること
もある。
でも、傷ついた心には直球しか届かない、変化球によって子どもたちは傷付
いている、大人たちの教育の技術などというものは、裸の心をもつ子どもたち
の前では無力であり、情熱伝える教師になろうと思う。
希望なくした子どもが、北星余市で光を取り戻して卒業の区切り迎える。
不登校だった子がなぜ北星で皆勤になることができるのか、北星の多くの教
師が泥だらけに向いている答なんだろうと思う。きれいごとでは語れない。
最近の事件もありましたが、真正面から涙流しながら乗り越える、壁を壊し
ていく。
自分は教育によって歪み、教育によって生まれ変わった人間です。残りの人
生は教育とともに真剣に諦めることなく歩んでいきたい。壁はたくさんある。
今もあたっている。その壁にさえ彼らと共にあっていきたい。
今日はどうもありがとうございました。
▼原文
http://www.dokokyoso.jp/kodomo-kyoiku/hossoku.htm
▼TBS【ヤンキー母校に帰る】公式サイト
http://www.tbs.co.jp/yankee/
−−−
「自己解体を繰り返すことに恥じない」
協力社会にこそ新たな価値を見い出す学びの社会
http://www.yorozubp.com/
2003年11月12日(水)
長野県南佐久郡南相木村診療所長 色平哲郎
われわれはどこかで「変わらなければならない」という感覚を持っている
のではないだろうか。
たとえ無自覚であったとしても、現状への“とまどい”の表れがそれを
象徴している。
私たちには、見えないものを見定める力、声になっていないものを聴き
届ける力、そうした能力が求められているのかもしれない。
そのためには、この社会の「構造」を自覚し、「ちがいとまちがい」を
こそ大切にしながら、長持ちする人間関係のありようを学んでいくほかは
ないのではないか。
ムラの診療所長として、また長野県の福祉行政、教育行政のブレーンと
して馳駆(ちく)の労をいとわない色平哲郎医師の視野にある日本の
進むべき方向性とは--。
■「支配の構造」を自覚しなければならない
冷戦という一つの「構造」が終焉(しゅうえん)を迎えたときから市場経済
への完全な移行とともに世界が単一のマーケットになるという新たな
「構造」が生まれました。
そして、「こういう社会では競争が必然だ」とかけ声がかかるようにも
なりました。
そのため、これまでに見られなかった変化が日本にも表れてとまどって
いるという現状があります。
このことは、途上国ではすでに以前から起こっていたことなのです。
しかし、日本人は自分たちの国を先進国だと考え、「みんなが中流になれ
てよかった」とさえ思っていました。
いま、やっと競争社会の現実が見えるようになってきたのだという気が
します。
とはいえ、本来考えていかなければならないことは、みんなが感じている
その“とまどい”がどこからくるのか、ということです。
それは「支配の構造」に原因があります。
われわれは、それを自覚しなければなりません。
善し悪しは別として、支配する側とされる側があるのだということを。
それは「お金」という形を通した間接的なものであったとしても、
厳然と存在します。
日本の中だけにいれば、いかにも民主主義的に運営されているように
感じられますが、一歩国際社会に出れば必ずしもそうではないのです。
まだソ連が存在している間は、アメリカもそうしたことをオープンには
語れませんでした。
しかし、「大米帝国」がだれの目にも明らかになったいま、
「支配の構造」をよく見ておいたほうがいいと思います。
決してわれわれの敵ではないけれど、われわれ自身がその構造物の中に
閉じ込められもがいていることも含めて、その構造物はどのような目的
で建てられ、あるいはどのような意図で改築されてきたのかを見据えて
いく必要があります。
それが、たとえ一種の諦(あきら)めの境地になる可能性があったと
してもです。
この日本という国では、どれほど“とまどい”があったとしても生きて
いけなくなることはありません。
客船でいえば三等船室に封じ込められているわけではないのですから。
ほとんどの国民が中産階級化した日本人は、いってみれば一等船室に
閉じ込められた状態でしょう。
ところが同じ船内には、一等船室の他(ほか)にも、自分の荷物置き場
をやっと確保できる二等船室や、座席のない三等船室、あるいは広い空間
と高級な調度品を備えた特等船室の乗客もいます。
機関室やレストランの厨房(ちゅうぼう)で仕事をしている人もいます。
そうしたことを、かつての日本は、アジアの一国として肌身に感じて
わかっていたはずなのですが、自分の船室のレベルが上がってくるうちに
「自分らの船室以外のところは関係ない」
「国境の外は関係ない」
と思うようになってきました。
しかし、その時代もすでに終わってしまったと私は思うのです。
もちろん、一等船室の中にも「二等船室へ行ったほうがいいのでは?」
とか「まったく別の特殊な船室へ行ったほうがいいですよ」と言われる人
がいます。
障害者など差別を受けている人たちです。
同じ船に乗り合わせている人間として、その人たちのことも考えてあげね
ばならない。
自分もまた身体障害者になる可能性があるのだということを認めなければ
ならない。
そうした
「先進国に似つかわしくない人たちには別の船室へ行ってもらいましょう
よね」と、
みんなが同じであることに安心を感じてウス笑いを浮かべているようでは、
「構造」を感じることなど到底できないでしょう。
■声なき声を伝えられるピラミッドであるか
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』(一九三〇
年発刊)という著書の中で「大衆は、少数のエリートによる支配を乗り
越えてくる存在であるけれども、彼らはみんなが同じであることをまった
く恥じ入る感覚がないばかりでなく、むしろそれによって存在感を示そう
という人たちである」と述べています。
少数のエリート支配が終わる時代状況を指摘したのですが、
われわれは決してエリート社会に戻りたいと願っているわけではないと
思います。
しかし、みんなが同じであることを前提に社会を取り仕切って安心の
ウス笑いを浮かべていると、「構造」が見えてこないばかりか、学校で
いじめが起こっても「人と違わないことが得だ」と思うようになる危険性
もあります。
それは不幸なことです。
また先生が「正解をもっているのは私ですよ」と知識を注入するような
教育を続けるのであれば、これもまた「構造」に対する気づきを奪って
しまうことにもなりかねません。
教師のほうも、そうした権力的な関係を当たり前だと思うときには、
自分もまた同じような権力構造の最底辺にいる場合が多いのですが、
そうした上から下への一方的な伝達に無批判な行動をとっていると、
自分がどこに位置して、どういう状況にあるのかを外から見つめなおす
視座を得ることがほとんどできなくなってしまいます。
学校関係者の前で、こんな話をしたことがあります。
「子どもたちがノビノビ、イキイキ、ハキハキ、ニコニコ、
ドキドキするような教室づくりができたらいいですよね。
その子どもたちを教え導いているのは、やはりノビノビ、
イキイキ、ハキハキ、ニコニコ、ドキドキしている先生方ですよね。
そして、その先生方を支えているのは、
ノビノビ、イキイキすることが大事だと考えて学校経営をやられている
校長先生ですよね。
教育委員会もそれをうながすような組織ですよね」
と。
そう話した後、
「では、病院では、どうして患者さんや家族の方はビクビク、
オドオドしているのでしょうか?」
と投げかけます。
そして、「こう考えられませんか?」と言います。
「患者さんや家族の方がビクビク、オドオドしているのは、
そうさせられているからではないでしょうか。
つまり、医者がノビノビ、イキイキしすぎているからなのではない
でしょうか」
と。
そして最後に、
「自己を家畜化させられ、飼われることに慣れてしまった自分に気づい
ていない教員たちもまた……」
と言い添えて、
「彼らにこそ、”奴隷解放宣言”が必要となろうか」と結べば、
聴衆の方々は絶句です。
文部科学省が作り上げた小さなピラミッドの末端に置かれている教師
たちが、同じような三角形を下に作ってしまう。
それは、
病院や診療所の医者にも、特養施設の所長にも、役職にある役人にも
当てはまることです。
下の人たちを導き促す立場にある専門職であるけれども、それがために
「専門的に善き道筋に導くのだ」という罠(わな)に陥ってしまう危険
性があるのです。
しかも、
下の人たちはオドオド、ビクビクはしないとしても常に依存的な、
ある意味で「仕方のないこと」と感じがちな一方的なサービスにさらさ
れることになります。
このような人たちは、そうした三角形の頂点に立つ人、あるいは中間に
いる看護師さんや寮母さんやヘルパーさんに対して言い返すことができ
ないために、その人たちが心の中で思っている声にならない声は沈黙の
中に置かれてしまいます。
それが当たり前となれば、組織は硬直化していきます。
知的障害者の施設へ行くと、言葉のおぼつかない青年が私に対して
「実は」という本心を訴えてきます。
ところが、ドアの外から足音が聞こえてくるとパッと声を止める。
知的障害があっても自分の身の安全保障に関しては考えているわけ
ですから。
そこで私のような外部の人間がアドボカシー(代弁者)として
「アラオカシー(あら、おかしい)」と感じたことを小さな三角形の
トップにうまく伝えることができれば、現在のように規制緩和などの
大波が押し寄せている時代にあっても、その小さな三角形でのサービス
が他とは差異が際立ち、生き残れる組織にもなっていくのです。
声なき声を集約して上に伝えて襟(えり)を正していくことは、小さな
三角形にとって決して損なことではなく、得な、生き残りの施策にもなる
という、そういう時代であろうと思います。
一方で、その小さな三角形がたくさんあるその上にも三角形がいくつも
乗っていて、教育界や医療界でいえば、たくさんの三角形の頂点に文部
科学省や厚生労働省が乗っている日本の中央集権という構造のあり方に
気づかなければ、次の一歩は踏み出せません。
そうした「構造」に気がつけば、自己を家畜化してしまうような文部科
学省からの統制に対しても「当たり前だ」と思うことが教師としての
あるべき姿だと感じざるをえないようなつらい状況にあったのかもしれ
ないと、たとえ同情的にでも指摘できることは第一歩なのです。
なぜなら、「そんなことはない」という反発する心の中にこそ、自ら
の気づきがあるわけですから。
■生涯学習社会とは「選び取る学び」の社会
私は、長野県の医療行政、道路行政に昨年まで携わっていましたし、
今年度は教育委員会からは生涯学習審議会の委員を、社会部からは福祉
サービスが第三者評価されるためのシステム構築を行う委員の委嘱を受け
ています。
まさに先ほどのアドボカシー、あるいはオンブズマン活動をどうすれば
導入できるのかという検討を行っているわけです。
オンブズマンとは北欧の言葉で、「真実の人」という意味です。
つまり、声なき声を聞きとどめて対応していく仕組みなのです。
生涯学習審議会の委員になったことを意味のあることだと思うのは、学校
以外のところに学習の機会や気づきの機会があるという発見です。
これは、大学病院の中だけに医療があるのではなく、地域にこそ医療が
必要なのだという意味と同じで、「大学医療」と「地域医療」が対比される
ように、「学校教育」に対して「生涯学習」と捉(とら)えることができる
かもしれないと考えています。
例えば、医療、教育といえば専門職が担うものという感覚があります。
さらにいえば、特に教育は「教える」あるいは「教え込む」という斜め上
からのまなざしになりがちです。
それに対して「学習」は、教育する側の人間にも存在するものであり、
ぶつかりの体験の中で学んで自ら変わらざるをえないものでもあるわけです。
痛いぶつかりであったかどうかはわからないし、また人間はよいほうにも
悪いほうにも自在に変われる存在ではありますが、だれにもぶつかりと
その後の自分の内面の変化という「学習」は確実にあったはずです。
それを自身で内省的に捉えれば、どんな人でもその人生は一生涯をかけて
の「学習」なのだと理解できる。
それが「生涯学習社会」でありましょう。
今日、社会が変わってくれば、あるいは世界情勢が変化してくれば、
それに合わせてわれわれの立ち居振る舞いをも変えなければならない状況で
ある以上、継続教育ともいうべきこの「生涯学習」は大切なものです。
またそれがあればリカレント教育(社会に出てからも学校または教育・
訓練機関に回帰することが可能な教育システム)の理念に照らしても人材が
無駄になることはないだろうと感じます。
いったんどこかでつまづいたとしても、その後、自分の持っている能力を
別のところで開花していくことができるという社会的な保証があるわけです
から。
ヨーロッパ社会では、暮らすということが重視され、「住まい」は人権で
あるという感覚があり、きちんとした家に住むことが権利であるという合意
形成がなされています。
同じように、ただ「住む」というだけでなくそこで暮らしていくときに地域
で学び続けることもまた一つの人権であると確立されています。
日本では、
例えば十八歳で医者になることを決めざるをえなかったり、
さまざまな決断点を早めに用意していますが、
実は、これはいかにも途上国的な発想なのです。
これほど長生きする社会になったわけであり、また、一生同じ職場で勤め
上げることは理想ではあるかもしれないけれどそれができないような流動的な
世の中になった。
だからこそ、次の職にいかに自分を適合させていくかという「選びとる学び」
が重要になってくるわけです。
ここに、「教え込む」という教化ともいうべき教育観を当てはめることは
時代遅れです。
知人のある財務官が、こんなことをいいました。
「お金の流れやシステムは簡単に変えられるんです。
でも、人間の意識がいちばん変えられない。
特に専門職にある人たちの意識を変えることは難しい」。
権力的に変えることのできるものは簡単だけれど、職業人の意識にはそれが
通用しないと彼は言うわけです。
現在のような、あらゆることの変化のスピードが早い、専門的な技術が陳腐
化しやすい世の中にあって、ある種の不安感からか専門職にある人たちは
変われないでいます。
ですから、
「生涯学習社会」実現の最大の「敵」が、実は教員であったりするのです。
教員たちが仕切っている教室でもって、しかも文部科学省が一元的に取り
仕切っているところで「生涯学習」を打ち出すことは不可能なのかもしれ
ません。
本来、教員ではない人たちが役割を担って自分を発見し子どもたちを促して
いくようにすべきであり、子どもたちもまた、自分たちが世の中でどのよう
に自らの生き方を選びとっていくのかとすべきでしょう。
文部科学省が一元的に仕切るベきものでもなく、せめて都道府県の教育委員
会で
「われわれの地域・地方においてはどのような生涯学習社会に向けて
舵を切るべきか」
と白紙から練り上げていかなければいけないことなのです。
そうしなければ言葉の矛盾になってしまうし、「生涯学習」が機能しなく
なります。
■「自分で考える」という必然的な流れの中で
しかし、こうしたことがスローガンを立てるだけで解決するわけではない
ことはもちろんです。
理念があって、その理念を政策として文章化し、その政策を施策に落とし、
予算執行し、決算までもっていくという一連の流れがありますが、
まず必要なものは理念です。
それがなければ船は舵を切ることさえできません。
一九九九年に「地方分権一括法」が成立しました。
真の意味での地方分権、地域主権を目指さなければならないわけですが、
ヨーロッパでは、まず自分でできることは自分でやる、それでできないこと
は家族でやる、家族でできないことは地域でやる、それでできないことは
基礎自治体(コミューニティー)がやって、基礎自治体でできないことは
広域自治体で……と目の前から積み上がっていくやり方です。
日本の場合、
「シャウプ勧告」のときにその実現を勧告されたけれども、
それができずに戦後そのままになってしまった。
そうして、例えば「県」という行政単位の位置付けが、国でもなく市町村
でもない「中二階」的な、上からの指示を流すだけの存在になってしまっ
ています。
そうすると、自前でできることは自前でやるために市町村レベルに下ろさ
なければならないし、国もまた財政難から、さきほどの積み上げられた
三角形の頂上から、かつてのような強権による指示もなくなっただけでなく、
つい最近までのお金を流して指導するやり方も不可能になってしまったため
に、残された方法としては、「自分のことは自分で考えてやる」しかない
わけでしょう。
つまり、必然的に地方分権にならざるをえない状況になっているのです。
ですから、
現在の長野県は自ら社会実験に取り組む方向へ進んできています。
それで失敗しそうになれば、また軌道修正すればよいわけです。
ここでポイントとなることは、自前で責任をとるという姿勢であり、
そういう社会になっていかない限り地方分権は実現できないでしょう。
これまで日本は、資本主義であるといわれていたわりには、すべての判断
を「お上」に任せていた。
それが、何か問題が起こっても「お上」が保証してくれるというお墨付き
でもありました。
いま、そのお墨付きがなくなってきています。
けれども、
実は、それは本来の資本主義に向かっていることでもあるわけで、これは
実に恐いことでもあるのです。
自分で考えてやっていくことができなければ世の中を渡っていくことも
難しい状況になっているわけですから。
私が大学などで非常勤として授業を受け持ったり、あるいは集中講議で学生
に話をする場合には、討論の機会をたくさんもって、自ら調べ、自分の意見
を述べることを求めるようにしています。
知識を求めているのではなく、自分で知識の体系をひも解いて、自ら考え、
意見を皆に発表することを重視しているのです。
あるいは、他人との関係性の中で正解を見つけていこうとする姿勢が大事だ
と考えているのです。
それは、私自身が気づけていなかったことでもあるからです。
英語を勉強してヨーロッパやフィリピンで英語を使ってディスカッションを
やるようになって、
「こういうやり方があるんだな」と気づかざるをえなかったからなんです。
学ぶことを学ぶ、生きることとはなにかを大事にする、道徳や価値をいった
ん疑ってかかることができるか、
合理的証拠をもいったんは疑ってそれでもなおやはりそれが大切であると
納得して考えることができるか、
教える側と学ぶ側との間でなにを学ぶのかを協議することができないか……
そういったことに取り組んでいかなければいけないだろうと思うのです。
さらには、問題や課題を発見できたときに、われわれ年齢も性別も生きる
環境も異なる者同士がいったいなににおいて合意できているのか、どこまで
互いに変わりえたのか、それは言い換えれば、絶えず自己解体をくり返す
ことに恥じないという姿勢が問われていることでもあるのです。
そうした姿勢があれば、
どちらが「教育者である」ともいえないのです。
片方が多少物事を知っているからリードすることはできるけれども、議論が
終わった後には、批判めいたことまでいかなくても、お互いの姿勢やディス
カッションのありようを批評しあうことができるような開かれた教育観を
もつようにならなければ、今後の社会は持続できないのではないかと
考えます。
書かれたもの、しゃべったものには編集行為が可能なために事実と異なる
ことも入り込んでくる余地があろうけれど、人の生き方だけはごまかせない。
つまり、
日々を同じ姿勢で貫いてきた職人や肩書きと関係のない生き方をしてきた人
の人生の中にこそ技や知恵があるという、長持ちする人間のありようという
のは、かつての日本人に確かにありました。
そういったことは村の中にいても感じ取ることができます。
知ることや覚えることよりもイマジネーションやインスピレーションが大事
で、一人ひとりの気づきの体験というのは、覚えこんだことよりも、感じ
取った真実として長く記憶に残るものです。
そのように、知識そのものよりも学ぶことに価値があるとする社会が
「生涯学習社会」なのです。
ため込むのではなく、みんなで分かち合うことで、「違うかもしれない」
とか「もう一歩先へいってみようか」という「ちがいとまちがい」に気づく
ことが大切なのです。
「みんなが同じであること」が当たり前であり恥ずかしくもないことと
感ずるのが大衆の当たり前のありようであるとすると、
単に消費させられるだけの、あるいは広告の刺激を受け続けるだけの
大衆消費社会の大衆が、自分たちが変わることによって広告を批判的に批評
し、また自前の生産活動に関与し参加することができる一人の市民として
生まれ変わることができるかどうか。
これは、旧来的な社会においてはエリートだけの特権であった
「ちがいとまちがい」
が大切であるという気づきを取り戻せるかどうかという点にあります。